2024 年 1 月 10 日発行
著者 片桐 暁
監修 / インタビュー 筑波大学教授 谷口 綾子
編集 / インタビュー / 文字起こし 筑波大学学士 4 年 林 凜太郎
もくじ
- 1 “健幸”のまち ――新潟県見附市と、その市長たち
- 2 学士・修士時代 ――まちづくりへの興味
- 3 省庁でのキャリア ――北海道、九州、そしてブラジルまで
- 4 副市長の 2 年間 ――大分県中津市での転機
- 5 ファーストコンタクト ――見附市長、久住時男からの誘い
- 6 チャレンジ ――何もしないことを恐れろ
- 7 継承 ――「健幸まちづくり」を引き継ぐ
- 8 新たなまちづくり ――女性・若年層・子育て世代に向けて
- 9 MOM UP PARK ――妊産婦や、若い母親の健康づくり
- 10 持続可能性 ――健康事業を続けるために
- 11 公共交通改革 ――コミュニティバスの小中学生無料化
- 12 CIM ――子どもたちが自由に移動できるまちとは?
- 13 健幸 ――そのかつてとこれから
“健幸”のまち ――新潟県見附市と、その市長たち
「健やか」に「幸せ」と書いて、健幸(けんこう)と読む。文字通り、健康は幸せに先立つものであることを、わずか 1 語で端的に表現した造語である。この「健幸」をまちづくりのスローガンとして掲げ、そして実践していることで知られるのが、新潟県の見附市だ。それは一日にしてなったものではなく、行政によって掲げられたビジョンと、それを受けた見附市民の日々の取り組みによって、徐々にかたちを成してきたものである。
さまざまな人々の関わり合いによって実現してきた見附市の健幸まちづくりであるが、ひときわ大きな役割を果たしてきたプレイヤーを挙げるとするならば、それは歴代の市長ということになるだろう。具体的には、第 11~12 代目の市長である大塩満雄(在職 1994 年?2002 年)によって、医療福祉に力を入れた取り組みが始められた。そして第 13?17 代目の市長である久住く す み時男(在職 2002 年?2021 年)によって、「健幸まちづくり」が掲げられ、見附市の大きな特徴となった。さらに第 18 代目、2024 年現在における市長である稲田亮によって、そのまちづくりは今日に引き継がれている。
本物語は稲田を主人公とし、その半生や、久住からの引き継ぎの様子にも着目しながら、2021 年以降 2024 年現在までの、見附市の取り組みを描写するものである。
学士・修士時代 ――まちづくりへの興味
稲田亮は、1971 年 3 月 24 日に見附市で生まれた。大学時代にはすでにまちづくりに興味があったことから、将来を見据えて土木工学を学ぶべく、工学部を選択した。
その興味の延長線上で、稲田は卒業論文にも、まちづくりと関連するテーマを選んだ。指導教員の専門は河川工学兼土木史であり、都市計画の専門家というわけではなかったのだが、稲田の要望を聞いて、いわば「好き勝手に」やらせてくれた。卒業論文のテーマには、新潟市の旧市街を取り上げた。地域の小学校にも協力を仰ぎながら、住民にまちに関するアンケートをとり、まちの現状に対する思い、今後このようなまちになって欲しいという願い、それらを地域愛着の尺度でまとめて論文としたのである。
稲田はそのまま修士課程へと進み、修士論文では、今度は公共交通をテーマとした。路線バスの走っている時間や距離を調べ、地域 A は公共交通の利便性が高い、地域 B は低い、地域 Cは…といったことを分析した。「指導されないまま、ほぼ自分勝手にやっていた」ため、稲田自身にとっては、それがちゃんとした論文になっていたかどうかの判断は付きかねたが、その論文執筆のプロセスは間違いなく、まちづくり、公共交通、あるいは都市や人口の問題といった、稲田の関心や問題意識をはぐくむことにつながったのだった。
省庁でのキャリア ――北海道、九州、そしてブラジルまで
こうして修士論文をまとめながらも、稲田には就職を考える時期が迫っていた。かねてより稲田は「公共の仕事をしたい」という思いを抱いていた。また一方で、「全国各地に行ってみたり、住んでみたり、さまざまな人たちと触れ合って交流したりできるような仕事がしたい」との思いもあった。これらを考え合わせて稲田が希望したのが、(旧)建設省や運輸省(現:国土交通省)といった省庁である。
ところで、稲田の出身の新潟大学からは、国家公務員 1 種試験を受けて採用されるケースはめずらしいというのが実情だった。稲田自身「まさか通るわけないだろう」と考えながらの採用試験である。面接試験でも「なぜ国で働くことを選ぶのか」という問いに対して「いろんな所に行ってみたいんです」と正々堂々、正直に話したのは、まさか受かるまいと思っていたためでもある。ところがこれが自身の予想に反して、運輸省に採用ということになった。国家公務員として、国の各地で公共事業に関する仕事を担うという、稲田自身の望んだコースが目の前に拓けることになったのである。
当時の運輸省は、陸海空の運輸行政のほか、海上保安や鉄道・気象等に関する行政を取り扱う機関であった。のちの 2001 年 1 月 6 日、中央省庁の再編が行なわれ、運輸省は建設省・国土庁・北海道開発庁と統合されて、現在の国土交通省となっている。
統合されたとはいえ、人事は出身の各省庁によってなんとなく分かれる傾向にあり、稲田が入省した運輸省出身の場合、港湾の仕事に配属されることが多かった。しかし稲田の場合は、鉄道局に 3 回配属されたほか、横断的な人事によって、九州地方整備局大分河川国道事務所長を始めとした肩書を歴任し、研鑽を積むことができた。また転勤でいえば、北は北海道から南は九州まで、果てはブラジルにも、在ブラジル大使館一等書記官として 3 年ほど滞在するなど、さまざまな任地を経験した。
さて、読者諸氏はすでにご承知の通り、稲田はのちに新潟県見附市の市長となるわけだが、ここに述べたさまざまなキャリアは、現在の見附市長の仕事と、どうつながっているのだろうか?
副市長の 2 年間 ――大分県中津市での転機
稲田はこう語る。「一番大きかったのは、国交省から 2015 年に大分県の中津市へ出向して、副市長として 2 年間を務めた経験だと思います」。
2015 年は、地方創生1という言葉が出始めた時期に当たる。2024 年現在は内閣総理大臣となっている石破茂氏が、地方創生担当大臣に就任し、地方創生人材支援制度ができた年だった。この制度は、地方創生に積極的に取り組む市町村に対し、意欲と能力のある国家公務員や大学研究者、民間人材を、市長・町長・村長の補佐役として派遣し、支援するためのものだった。稲田はこの制度の一環として、大分県中津市に派遣されたのである。
「当時の中津市の業務はなかなか大変でしたけれども、自治体という、市民に近いところでまちづくり的な仕事に携わるのも、非常に面白いなと感じることができました」。
派遣された年の 10 月、稲田は地方創生の総合戦略である『中津市版まち・ひと・しごと創生人口ビジョン』を作成することとなった。半年ほどの短期決戦であったが、稲田たちはコンサルティング会社を使わず、自分たち職員の手でつくろうと決めた。職員のモチベーションをいかにかきたて、維持するかが、稲田の課題となった。
「各課にちゃんと考えてしっかりした提案をしてきて欲しかったので、すべての課と面談をして、考え方や思いについて直接やり取りをしました。そしてそれぞれに提案を考えてもらって、ちょっとここはどうなのかなという部分は、こちらからまた宿題を投げるようなかたちで、丁寧にキャッチボールを繰り返していきました」。
その地道な作業は相当な労力が必要なものではあったが、それに見合った成果をもたらした。
「何が本当に必要で、何が課題なのかを、じっくり見つめ直してつくることができた。すごくきれいな戦略ができたかどうかはわからないですし、泥臭い戦略だったかもしれないですけれど、職員の思いが詰まった戦略はできたのかなと思っています」。
ファーストコンタクト ――見附市長、久住時男からの誘い
そののち、稲田が東京に戻り、国交省の本省に勤めていた時のことである。共通の知人を介して、見附市長の久住時男氏が会いたがっているという話を耳にした。稲田はその時点では久住と面識もなく、名前を知っている程度で、どのようなまちづくりを行なっているかも知らなかった。しかし故郷の市長と仲良くなることは悪いことではない。新しいネットワークもできるかもしれない。その程度の軽い気持ちで、稲田は久住に会ってみることにした。
ところがいざ向かい合ってみると、久住の口から出たのは、驚くべき言葉だった。
「見附の市長を、そのうちに辞めたいと思っています。その後、選挙で勝たなければいけないという条件はあるのですが、稲田さんには市長として、ぜひ見附に帰ってきていただきたいのです」。聞けば、持病もあり、職を辞すことを考えているという。
青天の霹靂とは、このことである。中津市での体験などから、地方自治体の仕事に関心を抱くようになっていた稲田ではあったが、まさか初対面の同郷の現職市長から、次期市長にとの依頼を直接受けるとは、思いもよらないことであった。当然、即答ができるような問題でもない。
「考えさせてくれということしか、言いようがなかったですよね。家族や家庭もありますし」。
しかし久住の思いは強く、その後しばしば、稲田は久住の説得を受けた。受け続けた、といってもよいかもしれない。事実その説得は、その後約 3 年半にも及んだ。
「ただ、私の記憶では、簡単に返事はできないという言い方をさせていただいていて、マルともバツとも、はっきりとは言っていなかったかと思います」。
またその当時は、新型コロナウイルスが猛威を振るっていた時期でもあった。都道府県間の移動は制限されており、稲田自身、地元に帰ることすらできてはいない。この件を東京在住の家族に相談したところ、(当然ともいえるが)猛反対を受ける始末であった。
しかし稲田は、そんな状況であるにも関わらず、“見附に戻る”という決心をするのである。選挙に立候補し、勝利して、久住の次の市長となるためだ。はたして、何が稲田をこのように決心させたのだろうか?
チャレンジ ――何もしないことを恐れろ
見附市の Web サイトの市長紹介ページには、稲田の好きな言葉として、次のような文章が掲載されている。
チャレンジして失敗を恐れるよりも、何もしないことを恐れろ
これはホンダの創業者である、かの本田宗一郎の言葉である。これまでの人生においても稲田の胸にあり、折々の選択において羅針盤となってきた言葉であった。今回の件は、まったく予測のつかない、運命のいたずらのようなかたちで降りかかってきたものではあったが、この言葉に照らし合わせた時、稲田には無視して通り過ぎるわけにはいかない選択だったのである。
「こういうチャンスをいただいて、『この仕事をやりたくないな』とは思わなかったですし、学生時代からずっと関心のあった、まちづくりの話とも重なりました。市の、自治体のトップとして、市民とともにまちづくりに関われるということですから」。
きっかけをつくり、説得してきたのは間違いなく久住であるとはいえ、これは稲田自身が自分の人生として引き受け、考えるべき問題だった。
「大分の中津市で副市長をさせていただいて、市の仕事というのは本当にやりがいがあるなというのも実感していた中で、政治の世界特有の苦労などもあるかもしれないけど、やっぱりチャレンジできるチャンスを与えられたなら『やってみたいな』と思ってしまったんですよね」。
選挙については、対立候補者の立候補があったため、一騎打ちの争いとなった。相手候補に 2倍近い差を付けて当選したとき、稲田はほっとするのと同時に、いかに自分が重い責任を負うことになったのか、そのことをあらためて実感することとなった。
当選直後、稲田は記者に現在の気持ちを尋ねられ、以下のようなコメントを残している。
選挙というのはどうしても票が割れてしまうものだ。しかし自分は、自分に票を投じてくれた方々はもちろんのこと、対立候補を応援した方々も含めて、すべての市民のための行政をしたい。見附を 1 つにして、見附全体のための行政をしたい、そんな思いを新たにしている、と。
継承 ――「健幸まちづくり」を引き継ぐ
稲田は久住から、健幸まちづくりに込めた思いや、「自分はこんな取り組みをやってきたんだ」という説明を受けていた。そのため、どのようなかたちでやっていくのか、それはまだ市長になってみなければわからないけれども、これまで行なわれてきたことを無にするまい、しっかりと継承していこうという覚悟は胸にあった。
しかしもちろん、市長になった稲田にとって取り組みたいテーマは無数にあり、健幸まちづくりは、見附市を構成するさまざまな核の 1 つであるというのが、稲田の捉え方だった。引き継ぐのであれば、あらためて自分が批判的な吟味を加え、自分の施策として咀嚼した上でなければならない。
例えば、久住の時代から行なわれていた研究会で、久住自身が会長を務めていたこともある、Smart Wellness City 首長研究会というものがある。これは健幸まちづくりに取り組んでいる自治体の首長や担当者が集まり、知見を深めあうための研究会である。稲田はこれに関しても、久住が参加していたからということで漫然と継続するのではなく、自分が入ってみて、自分で体感するということを重視した。継続の可否を判断するのは、その後でよい(実際、別の会では、久住は入っていたが稲田は辞めたものもある)。
ところが実際に参加してみて、この研究会の内容に稲田は魅せられた。健康・保健・医療などのテーマだけでなく、公共交通も関わってくれば、高齢者の幸せ、女性の健康、子どもの未来についてなども話題に入ってくるといった幅広さで、健幸という考え方全般に関する、熱心な議論が展開されるのである。
研究会は、久住のまちづくりの良きパートナーともいうべき存在であった「久野先生(筑波大学 久野譜也教授)」によってコーディネートされていた。各界から講師を迎えた講演、健幸まちづくりにまつわる最新・最先端の知識を得られるパネルディスカッションを聴くことができるのみならず、参加者に対してはかなりの頻度で「いまのお話をどのように感じましたか?」「お考えは?」と久野先生から指され、質問やコメントしなければならないという、刺激的なセッションである。

「久野先生も、どういう内容で開催したら首長の勉強になるのかと、真剣に考えていらっしゃる。いつ指名されるか分からない緊張感の部分も含めて、本当に勉強になる会だと思いましたので、これはしっかり続けていかなければならないと思いました」。
稲田は、庁舎における日々の業務の中で、立場上、自分の一方的な指示にならないようにと気をつけている。職員が不満に思いながらも何かをやらされている状況が起きないようにである。例えば職員との勉強会において「これについてはどう思う?」というのは常に問いかけていることではあるのだが、そんな稲田にとっても、この SWC 首長研究会の内容や進め方には、多くの示唆深い点、そこから学び、取り入れられる点があったのである。
新たなまちづくり ――女性・若年層・子育て世代に向けて
稲田が市長となってから力を入れて取り組んでいるのが、女性や若年層、子育て世代の人たちに着目した働きかけや施策である。
見附は、新潟県下第二位の人口を有する長岡市に隣接しており、また見附の名を冠したインターチェンジがある(中之島見附 IC:正確には長岡市にあるが見附にほど近く、交通の便がよい)など、立地的なポテンシャルを備えている。新潟県内ではもっとも小さな市であるが、これは将来的なコンパクトシティへの流れを踏まえれば、むしろ利点といえる。
このように考えると、見附が持続可能なまちになっていくための方法は、若い人たち、子育て世代の人たちに、いかに見附に住んでもらえるか、あるいは戻ってきてもらえるかである、ということが理解できる。
久住が行なった健幸まちづくりはさまざまな施策を含み込んだものであったが、どちらかといえば、高齢者の健康施策寄りになっていたというのが稲田の解釈だ。そこで稲田は、それらの施策を受け継ぎつつも、全世代の市民、あらゆる境遇の市民が取り残されないようにしていきたいという思いを、「第 5 次見附市総合計画(市政運営の方向性を示す最上位計画)」の後期基本計画の 2 点目に掲げ、健康施策を新たなステージに引き上げたいと考えたのである。
地元である見附に住み続けてもらう。あるいは U ターンで戻ってきてもらう、I ターンで新しく住んでもらう。いずれの選択肢にせよ、若い人たちが見附に居を構えるに重要なことは、働く場所がしっかりあるということである。そのためには、起業・創業の推進や企業誘致、そして産業振興といった施策が、これまで以上に重要になってくるだろう。
それと対になるのが、安心して子育てのできる環境が整えられていること。働くということに関していえば、見附に限らず近隣市でというかたちもありうるのかもしれないが、こと子育てに関していえば、必ず地元で行うことになる。例えば教育 1 つとっても、幼稚園・保育園、小学校、中学校というところまでは、少なくとも地元で対応していかなければならない。そしてそれが魅力的であればあるほど、それはそのまま、若い人たちに対しての見附の魅力につながっていくはずだと、稲田は考えている。
MOM UP PARK ――妊産婦や、若い母親の健康づくり
久野先生が、健康教室と同様に取り組み、近年特に注力してきたのが、妊産婦や若い母親の健康づくりに関する普及啓発だ。これは「MOM UP PARK(マムアップパーク)by 健幸スマイルスタジオ2」という取り組みに結実し、この運動に賛同・連携する自治体によって、全国に展開されている。
MOM UP PARK は、妊産婦や、未就学児童をもつママのための運動を行なう対面教室と、運動・交流・相談が一体となったオンライン教室からなっている。健康づくりに効果的な運動習慣は週 2 回程度と言われているが、この両教室に参加することで、その条件がおのずと満たされる。参加者は「からだを動かす」「人とつながる」「見て聞いて知る」ことができ、産前産後の身体と心を、専門家チームと一緒にととのえることができるのだ。
稲田はこの MOM UP PARK をぜひ見附市に取り入れたいと思い、担当課に相談に行ったのだが、実現に至るまでには、役所内の保健師はじめ職員から、かなりの反対の声を受けることになった。
「妊婦さんやお母さんたちは、こんなことに興味持たないですよ」
「親御さんは子どもたちのことだけで手一杯です」
「募集したところで、集まらずに苦労するだけです」
しかし稲田には持論があったため、彼らの意見を受け止めつつも、説得に回った ――そもそもの健康教室のことを考えてみて欲しい。あれだって、無関心な人々にどう関心を持ってもらえるかというテーマで今日まで頑張ってきて、それで見附はこれだけ健康に関心を持つまちになった。ハードルを超えるという意味では、健康教室での挑戦と、実は一緒ではないかと思う。私としては、次はママさんたちに、頭の中を切り替えてもらって、自分の身体や健康に関心を持ってもらいたい。妊産婦や若いママさんの行動変容をうながすということには、大きな意味があるんだ―― といった具合である。
MOM UP PARK には「ママもまんなかプロジェクト」というキャッチコピーが付いている。稲田の説得は、まさにこのキャッチコピーの示すところを、職員に対して示したものだといえるのかもしれない。
ともかくこのようにして、見附市は MOM UP PARK の連携自治体に入り、見附市民の“たまり場”である『ネーブルみつけ』を活用しながら取り組みを始めることになった。対面教室は月に 1 回、年 12 回の開催であり、オンライン教室は、毎週、週 2 回まで参加できる。2024 年現在、この取り組みは 2 年目に入ったところである。
「残念ながら、参加人数はまだ伸び悩んでいます。おそらく見附だけということではなく、他の地域を含めプロジェクト全体的にでしょうか。ですから SWC 首長研究会で議題に取り上げたり、広報をあの手この手で切り替えながらやっています」。
「これは内閣府戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)による 5 年計画のプロジェクトで、そのうちの 2 年目に入ったばかりなので、まだ実を結んでいないかもしれないが焦らないで欲しいということを、保健師や職員等、関係者には伝えています」。
持続可能性 ――健康事業を続けるために
見附市では健幸まちづくりのために、2018-2023 年度の 5 年間、国から補助金の助成を受けるかたちでプロジェクトを進めてきた。例えば健康ポイント施策(市民が歩くことで健康ポイントを貯めることができ、それを地域商品券や寄付の権利に変えられる仕組み)に関する負担に関しても、主として補助金から出していたのである。それが 5 年を経過し、国からの補助金がなくなったことは、プロジェクトの存亡に関わる問題であった。これからはそれらを、見附市独自の財源で予算計上した単費(単独事業費)でまかなっていかなければならないからである。
しかし、健康ポイントについては市民の評判がたいへんよく、人々の歩くモチベーションの源泉にもなっており、「健幸まちづくり」の目玉の 1 つである。これをすべてなくしてしまうわけにはいかないため、持続可能な仕組みに見直すことが必要になった。
「ポイントの交換率を見直したんですが、この決断は苦しかったですね。『やっぱり後退するんだな』などと思われる可能性がある中で、市民向けのチラシには、この取り組みを持続可能なものにするためにご理解いただきたい、という情報発信を行ないました」。
一方で、本施策は医療費の削減にもつながっており、そのことに関する明確なエビデンスも出ているため、財政的には、取り組んだからこそのメリットも証明されていた。
「やっぱり最初の立ち上げ時には制度を充実させて、ポイント付与率なり、景品なりを良いものにしておくことが大切です。ただし、だいぶ定着してきたなという頃には、それらを少し見直して比率を落としていくことも必要になってくる。他にも新しくやっていかなければいけない取り組みもたくさんありますので、これはもう、いかんともしがたいのかなと」。
幸いにして、ポイントの付与率が変わったと市に苦情が寄せられるといったことは起こっていない。本施策の真の報酬は「続けているうちに自分のためになるから」「自分が健康になっている実感があるから」ということであって、それに比べればポイントは本質的な問題ではないということなのかもしれない。
「私もウォーキングイベントなど、市民の方々と一緒に参加させていただいてますけれども、『しっかり健康事業を続けてくださいね』『歩くことの励みになっています』という言葉を頂戴しますので、この仕組みを長く残すためにも、工夫を重ねていきたいですね」。
公共交通改革 ――コミュニティバスの小中学生無料化
歩くことは健康に良いものだが、例えば散歩のように歩くこと自体を目的としなくとも、自然と歩数を増やすことはできる。クルマの代わりに公共交通を移動手段として使えばよいのだ。クルマ移動では、出発地から目的地までがドア・トゥ・ドアになってしまってほぼ歩かないところを、公共交通ならば、家から停留所なり、駅から目的地なりを歩くことになるためである。
これは久住の時代から見附市においても取り組んできていることで、稲田もその思いを引き継ぎ、公共交通の充実に努めていきたいと考えていた。例えばコミュニティバスの維持とサービス向上は、常変わらぬ課題である。
そんな中で、稲田が踏み切った改革がある。2023 年 7 月 1 日より、市内在住の中学生・小学生に対し、コミュニティバスの運賃無料化をスタートさせたのだ。先述した健康面への配慮はもちろんのことであるが、子どもたちに見附市内を自由に動き回ってもらって、見附をもっと好きになってもらいたい、という観点からの施策であった。
コミュニティバスの利用客に占める小・中学生の割合は、もともと多くはない。その意味では、子どもたちの利用を無料化することは、PR 効果や実質的効果の面では非常に大きいと思われるのに対し、経営的・財政的な観点でいうなら、さほど問題がない。本施策は、まさにこの点に着眼し、巧みに利用した、アイデア勝利の施策といえよう。制約条件としては、他の乗客が困ってしまうほど乗客が増えてしまわないように「通学には使わない」という縛りがあるくらいである。 「大きくなってから、見附にいた頃はあちこちに出かけたな、色々なところで遊んだなと、思い出して欲しいんです。一度市外に出たけれども、見附というまちはとっても良かったから、また戻ってきたい。そう考えてもらえるとしたら、やはり子ども時代の記憶あってのものだと思いますので」。
そんな風に U ターンが実現するのは 10 年後の話かもしれないし、20 年後、30 年後の話かもしれないが、まちづくり、ひいては政治というものは、それくらい長期の展望のもとに進められていくべきものであることを考えさせられる。
見附市も参画して進める Smart Wellness City の発起人会共同宣言には、こう書かれている。
「健康に関心のある層だけが参加するこれまでの政策から脱却し、市民誰もが参加し、生活習慣病予防及び寝たきり予防を可能とするまちづくりを目指す3」
この「市民誰もが参加し」の「市民」の範囲を、大人のみならず、明確に子どもにまで拡張させる。稲田はそのように宣言を新たな解釈で読み替えて、施策を進めているのである。
CIM ――子どもたちが自由に移動できるまちとは?
コミュニティバスの子供運賃無料化に際しては、開始と同時に 2 ヶ月間のキャンペーンが行なわれた。「親が子に、バスの乗り方を教えられるように」ということで、最初の 2 ヶ月間に関しては、子どものみではなく、一緒に乗る親も無料にすることにしたのである。これはまた、コミュニティバスを、もっと地域に開かれたものにしていくための取り組みでもあった。
ところで現在、交通の分野で世界的に注目を集めている CIM(Children's Independent Mobility:子どものすべての行動に親が同伴するのではなく、どれだけ自分で独立して動けるかという指標)という考え方がある。この指標が高いほど、そのまちは成熟していると考えるのである。CIM の高さが子どもの心身の発達にも好影響を与えるという研究成果もある。子どもにコミュニティバスを使いこなしてほしいという稲田の理想も、この CIM の考え方に近しいものがあるだろう。
はたして今後、いかなるビジョンを掲げ、どのような施策を行なっていけば、将来的に子どもたちに自由に動き回ってもらえる見附市になるのか。稲田の考えるまちづくりの、1 つの大きなテーマである。
健幸 ――そのかつてとこれから
2023 年、見附市の中心部に、かつての書店の跡地を大胆にリノベーションした『プレイラボみつけ』がオープンした。主に小学生を対象とした、放課後や休日に自由に過ごすことのできる、遊びと学びの場である。利用料は無料。令和 2 年度(2020 年)から 4年度(2022 年)までに、小学生や子育て世代の人々を迎えて検討会やワークショップを繰り返し、そこで集まったさまざまな声をぎゅっと凝縮した、個性あふれる空間に仕上げられている。

(出典:見附市子育て支援サイト)
天候に関係なく遊ぶことができ、思いきり身体を動かせ、工作にも没頭できれば、静かに読書や勉強をしてもよい。休憩や飲食のためのスペースもある。閉館の時間ともなれば、たくさんの子どもたちが出てきて「またね」「バイバイ」と、にぎやかに去っていく。
子育て世代や、子どもたちの声をしっかりと聴くこと。それを市政に活かしていくこと。そしてそれらを通じて、将来の見附市民をはぐくんでいくこと。このプレイラボみつけという空間は、そんな稲田市政のスタンスの、1 つの結実であるようにも思われるのである。
「住んでいるだけで健康で幸せ(“健幸”)になれるまち『スマートウエルネスみつけ』」
これは、第 5 次見附市総合計画において示された、見附の将来像だ。そして稲田はいま、第 6次見附市総合計画に着手しようとしている。健幸まちづくりは、久住の代を経て、稲田へと確実に受け継がれ、そして今日この時代にふさわしい、新しいビジョンを示そうとしているのである。