2026年7月15日発行
著者 片桐 暁
監修/インタビュー 筑波大学教授 谷口 綾子
編集/インタビュー/文字起こし 森 直之
とある休日の、お昼どき。
「ただいまー。買ってきたよ、ホラお醤油」
あたしが仏頂面でお醤油をテーブルに置くと、その顔を見たママが思わず苦笑した。「ごめんね、切らしちゃって。でも、お醤油なしのお刺身なんて、ねえ?」
「そうだけどさぁ、あたし普段バスとか乗らないし、疲れたわー」
はぁー、とため息をついてソファに腰を下ろすと、「バスねぇ」とおじいちゃんが、感慨深げにつぶやいた。
「バスはね、本当にありがたいよ。私たちが昔、がんばってこの団地にバスを呼んだんだよ」
「呼んだ?バスを呼んだってどういうこと?」
「それにお醤油だって、昔はご近所さんに借りれば済んだんだけどなぁ」
「ご近所さん?いやいやさすがに貸してくれないでしょお醤油は!?」
「おじいちゃん、そのバスの話、ぼくもちょっと興味ありますね」
今度はパパが、おじいちゃんとあたしの会話に割って入る。
「それじゃあ、そのお醤油でお刺身をいただきながら、昔の話でも…」
こうして、いただきますに続いて、おじいちゃんのお話が始まったのだった。
I. 夢の土地と開拓者精神
林野を造成した片吹団地
神奈川県横浜市金沢区にある、片吹地区。1939年の町界町名地番整理事業にともなって、横浜市南部の金沢谷津町の一部から新設されたのが、この地区の始まりでした。そして1964年、すなわち最初の東京オリンピックと同じ年に、林野を切り拓いて造成が開始されたのが片吹団地です。
団地が位置しているのは、京急本線能見台(のうけんだい)駅と金沢文庫駅の間の内陸側です。現在、片吹団地自治会長を務める山崎さん(80代)は、55歳の時に越してきた片吹団地の環境を、こう評します。
「緑は多い、山は多い、公園が多い。海は近いし、景色もいい。たまに鎌倉なんかにも、のんびり足を伸ばしたり。住むにはとてもいいところだと思っています」。
「でも、住んでみて思ったのは、とにかくどこへ行くにしても平らな道がない。坂だらけなんです」。

そう、山を造成しただけあって、片吹団地は閑静な住環境と、どこもかしこも坂道からなっているのが大きな特徴でした。そんな団地に、昭和40年代、それぞれの夢や希望をいだいて、30代を中心とした多くの若い家族がたくさん入居してきました。まっさらな家々からなる団地はまるで、さまざまな土地から集まってきた人々の新しい歴史が、そこに描きこまれるのを待っているかのようでした。
生活の土地を、皆で開拓する
しかし片吹団地は、順風満帆なスタートを切ったわけではありませんでした。当時開発を行なっていたのは、東京住宅生協とデベロッパー。その東京住宅生協が、1969年、開発半ばにして倒産してしまったのです。すでに住み始めていた人たちは、たいへんな苦境に追い込まれることになりました。
1966年に越してきて以来、58年間を片吹団地で暮らす関町さん(90代)が、当時を振り返ります。
「家の方が先に建ったりしているもんだから、まだ水道が通っていないんだ。だから水道を縄でつないでね、それを各家庭に廻して。そうやって使っていた時期がありましたね。まるでアメリカ西部の開拓時代ですよ」。
1967年以来、こちらで暮らす貝田さん(80代)は、こう語ります。
「仕方がないからね、自治会が中心になりながら、まず道路をどうするかというところから始まって。水道も下水も、みんなで作っていった。その中でいろんな人間関係もできていった。だから片吹団地の住民は、団結力が強いんですよ」。
行政を当てにして待っていたら、今日明日の生活もままならない。自分たちのことは、自分たちで汗をかいて成し遂げる。そんな開拓者精神が、若き片吹団地を支えたのです。
不便さが生んだ、共助の文化
周辺にお店もなく、交通手段も整備されていない。そうした不便な環境で人々は、日々、生活を工夫し、環境と格闘し、そしてお互いに助け合いました。1969年に片吹団地に越してきた白井さん(80代)は回想します。
「お買い物は金沢文庫まで行くか、あるいは杉田にまで足を伸ばすかしかなくて。西友ストアがあったんですけど、とにかく道路もないものですから、踏切もない場所の線路を渡って通っていたんです」。
そんな不便な暮らしの中ですから、調味料が足りない、食材を買い忘れた…となったら大変です。
「そうするとご近所にね、『ねえねえ貸してちょうだい』ってお願いするんです。逆に、例えばおかずがいっぱいできたら、お裾分けをしてね。お互いさまで助け合わないと、食べていけないですから」。
子育てに関しても同様でした。
「例えば上の子を幼稚園に送るときにはね、下の子は隣のおばちゃんに『すいません、赤ちゃん見ててください、お願いします』なんて言って、家の窓を開けて頼んでいきましたね」。
造成地の上に立つ新しい団地ではありますが、そこにはまるで、長く続いてきた下町かのような風情が流れていたのでした。その雰囲気は現在に至るまで変わらないと、白井さんは感じています。
2009年と、比較的最近に引っ越してきて、以来16年間を片吹団地で過ごしている赤羽根さん(40代)の印象はどうでしょうか。
「越してきて以来、ご近所さんには本当にお世話になっていまして、それが本当にありがたくて。うちは多分、あの界隈では、ギャーギャーとすごくうるさかったと思うんですよ。上にお兄ちゃんがいて、下に双子がいたから。でも一度も文句を言われたことがない。お兄ちゃんのときから皆さんにお世話になって、双子が生まれたら、またお世話になってね」。
そんな赤羽根さんをご近所の皆さんは「今度は赤羽根さんが、周囲をお世話してくれている」と語ります。片吹団地ならではの仲のよいご近所関係は、世代を超えて受け継がれているようです。
将来の足への懸念
片吹団地の住民たちが若い間、それは、さほど問題ではありませんでした。免許を持つ人たちはクルマを運転できましたし、そうでない人たちにも、坂の多いまちを歩く、若さや健やかさがあったからです。しかし当時から懸念はありました。人々は口々に語ります。
「自転車の後ろに買い物を詰めた段ボールをいっぱいに積んで、帰りの坂道を上がっていました。いつまで続けられるんだろう、という不安がありました」
「雨が降ると、もう最悪。傘を差して荷物を持ってあの坂を登るのは、まるで修行のようでした」
「駅から徒歩10分、と他人には伝えていましたけど、実際には坂道がありますから、陸の孤島のような状態でしたね」
II. 顕在化した、「日々の足」の必要性
年を重ねたコミュニティ
団地に人が住み出して以来、四半世紀、そして半世紀と、時が経っていきました。第一期入居世代の多くが80代、場合によっては90代を迎えました。若い頃とは違って、もう、思うように身体は動いてくれません。遠出がおっくうになるのはもちろん、高低差の大きい団地の地形が、日常生活の移動の不自由につながってしまうのです。どうすれば解決できるのか?答えは明瞭でした。どうしても「日々の足」が必要だったのです。
最初の一歩
年齢的に徒歩や自転車での移動が難しければ、クルマに頼らなければなりません。しかし80代、90代ともなれば、誰もがクルマを運転できるかというと、それは現実的ではありません。
「もし、この地域にバスさえあれば…」団地の人々の想いは、自然と路線バス導入に向けた要望に結びついていきました。そうとなれば、行政に相談を持ちかけてみることが自然な流れです。
こうして2011年5月、当時の自治会長だった福井さんほか5〜6名の住人が、金沢区役所へと、状況説明と陳情に出かけました。
およそ5年をかけて実現していくことになる片吹地区への路線バス導入の、これが第一歩となりました。
京浜急行バスの参画
片吹団地の人々の陳情を受け、金沢区役所は、地域一円にバスを走らせている京浜急行バス株式会社(以下京急バス)へと話をつなぎました。同年5月末にこの話を受け、京急バスの担当として動いたのが、玉井さん(現課長補佐、当時の肩書きは「事務員」)です。
「私の地元が金沢区だったからでしょうね、上司に『ちょっと見てきてくれ』と頼まれまして。多分、会社として初めて現地に入った人間が私だと思います」。
「そのときにクルマで走った印象は、『ここ、バスで走れるのかな?』と。狭い道もカーブも多いし、特に団地に入ってからは坂道も急なので『バスだと(車両の腹部を)擦っちゃうんじゃないかな』と感じたのを覚えています」。
同年8月、玉井さん始め京急バスの人々は、片吹団地自治会の人々と話し合いを持ちました。「社外に打ち合わせに出るというのはほとんど初めてというくらい、まだまだひよっこだった」という玉井さんが強調したのは、次の点でした。
「路線バスというのは、実際に運行を始めたら、簡単には廃止できないんです。いざ走らせてみたらお客さんがぜんぜん乗らなかったというのでは、大変なことになってしまいます。非常にハードルの高いことですから、皆さんのご協力を得なければ、決して実現はできないんです」。
これは、当時まだ短いキャリアながらも路線バス導入に苦慮してきた玉井さんの、実感に基づく本音でした。
「横浜市地域交通サポート事業」の活用
片吹団地の人々は次いで、横浜市役所の道路局企画課に相談しました。すると、折しも横浜市では、移動に困難を抱える片吹団地のような地域を支援する、サポート事業をスタートさせているというではありませんか。
この「横浜市地域交通サポート事業」の定義には、2つの重要なポイントが示されています。それは「地域の主体的な取り組みによって」、「地域に対して様々な支援を行う」というもの。つまりこの事業は、行政が取り仕切るのではなく、交通事業者が音頭を取るのでもなく、あくまで地域が主役となって牽引していくものだということです。
このサポート事業の支援を受けるために、福井さん以下団地の人々は、2012年の10月に「片吹交通対策委員会」という組織を立ち上げ、横浜市の「地域まちづくりグループ」という枠組みに登録を行いました。委員会の構成メンバーは、福井自治会長に、自治会役員5名、そしてボランティアやこの課題に関心の高い人々などで、合計約20名。こうして地域側の中核メンバーが整ったことで、地域・行政・交通事業者という、プロジェクトを構成するトライアングルが完成したのでした。
この片吹交通対策委員会にて、1年間にわたって福井自治会長を支えたのが、副会長の山崎さんです。山崎さんは2013年の福井さんの退任を受けて、以降、自治会長として活躍することになります。
企業戦士あらため、自治会長
山崎さんは現在に至るまで、10年以上にわたって会長を務めています。ですが意外なことに、山崎さんの現役時代は、いわゆる企業戦士一本槍で、まちづくりや町内会活動といった事柄には、いっさい無関心だったといいます。
「65歳まで、9時〜5時のサラリーマン生活でした。自治会の運営では、いわゆる『年当番』と称して、15〜20軒くらいをワンブロックにした中から毎年1人、役員を出さなきゃならないんです。その役割が2〜3回巡ってきましたけれども、私はもう、まったく関心なし。女房に任せっぱなしでした」。
そんな山崎さんが自治会長になったのは、退職の数年後。ご近所の世話好きの女性に推されてのことでした。
「山崎さん、自治会の役員やったら?会長なんて向いてると思うんだけど」
「いやいやそんな。僕なんかまったく事情もわからないし」
「大丈夫、大丈夫、山崎さんならきっとうまくやるわよ」
…とまあ、そんな具合です。山崎さんとしても、時間はある、体力的にもまだ問題なし、また、現役時代は労働組合の委員長の経験などもあって組織運動の必要性にも通じていたこともあり、押し切られてというわけでもありませんが、「ダメならダメでクビになればいいんだし」と引き受けたのでした。それが発端で、団地の人々の信頼を得てすでに10年以上になるのですから、人生わからないものです。
「私自身、後継者を探して、定年を過ぎて暇そうにしている人でもいないかなと思ってはいるんですが、昨今の自治会離れといいますか、そんな問題もありまして、なかなか次が見つからない。ですからせめて元気の続く間はと、この役職を続けさせていただいている次第なんです」。
「バスを地元に」
片吹交通対策委員会は2013年、団地の住民にアンケート調査を行いました。普段の移動手段はクルマか徒歩か自転車か、外出の頻度はどのくらいか、目的や時間帯は…?といった詳細な調査です。その結果、団地の人々の約3割から4割が、移動に何らかの困難を抱え、ひいてはバスを望んでいるということが明らかとなりました。
とはいえ、片吹団地自治会には、約500世帯が住んでいます。山崎さんはじめ委員の人々は、バス導入の困難も考え合わせ、「これは団地の一部の人間がバラバラに取り組んでいても、とても無理だ。住民が一丸となって取り組まなければならない」ということを実感していました。
地域全体を盛り上げるために
片吹交通対策委員会では、各委員が手分けして、使えるツールは何でも使い、機会を見つけては広報しました。取り組みの主要メンバーの一人だった白井さんは、当時を回想します。
「『いままさに、この団地はバスを導入しようと挑戦しているんだよ』ということを、団地全体に知って欲しかったんです。ポスター、横断幕、のぼり旗、標語入りの配布用チラシ…いろんなものをたくさんつくりました」。
「団地内には、8箇所の掲示板があります」と、山崎さん。「掲示場所としてそれらを活かしたのはもちろん、ほかには、21カ所あるゴミ集積所を活用しました。何はなくとも、住民の方々はゴミは必ず捨てに来ますので、そこに掲示物があると目に止まるだろうと考えたんです」。
さらに委員会では、広報誌も作成して配りました。「『片吹交通対策通信』という、いわばバスを呼び込むムードを高めるための、さまざまな記事を載せた新聞ですね。これは不定期刊行だったんですが、節目節目につくっては団地住民に全戸配布しまして、最終的には20号までつくりました」。
一人ひとりのまさに手作りの広報活動が、団地全体に運動を知らしめ、静かに押し広げていったのです。



III. 行政との協働
「バス?どういうことですか?」
山崎さんを含む片吹交通対策委員会が横浜市の道路局企画課に面会した際、交通計画担当として対応したのが当時係長だった高橋さんでした。高橋さんはそののち、病気で2022年に亡くなっていますが、山崎さんに強い印象を残しました。
「強面というか、個性が強い。ポンポンと、歯切れ良くものを言う人でしたねえ」。
そして、その高橋さんに部下として育てられたのが、当時入庁4年目、まだ20代半ばだった鹿島さんです。鹿島さんは2014年以降、片吹地区の担当者として、片吹団地の人々や京急バスと協力して、事業を推し進めていくことになります。
「私は2011年、東日本大震災の年に入庁しまして、横浜市の都筑土木事務所に3年間配属されていました。次はこのキャリアが活かせる場所がいいと思って、道路局建設課を希望していたんです。まちづくりとか、大きな橋や道路を設計するみたいなイメージで。そしたら異動先がバス関連だっていうから、『バスってどういうこと?何をつくるの?』と、非常に困惑したのを覚えています」。
バスをまちにどう取り入れるか、は広い意味で「まちづくり」とつながっているのですが、当時の鹿島さんには、まだピンと来ていなかったのでした。
「断る」から「対話する」へ
鹿島さんが配属されて驚いたことは、先まで配属されていた土木事務所との、カルチャーの違いでした。
「というのは、前職では『断る』ことがかなり多かったんですね。『街路樹を切ってほしい』『草刈りをお願いしたい』など、ひっきりなしに依頼は来るんです。でも先輩には『全部やってあげたいのはわかるけど、君のお金じゃなくて税金でやるんだから、優先順位を付けないと』と教わりまして。3年間、依頼を断ることが多かったものですから、それが身体に染み付いていた」。
「それで道路局企画課に異動になった後も『依頼があっても安易に引き受けちゃいけないのかな』と思い込んでいたんです。ところが、新しく上司になった(高橋)陽太さんから『その考え方を変えろ』『もっともっと、もっと俯瞰して見ろ』『困っている人たちに対して、どうしたら解決できるかを考えるのが仕事なんだ』と言われました」。
当時25歳の鹿島さんは、「役所が地域と一緒になって目標を実現する」といっても、そんな方法自体が難しいのではないか、役所と地域が喧嘩してしまい、成果に結びつかないのではないかといぶかっていました。ところが高橋さんや他の係長は、それを実現させているのです。
「少数精鋭の5〜6人で、横浜市全体のバス問題を見ているわけです。それはもうびっくりしました」。
高橋さんの教育方針は、いわば「敢えて現場に放り込む」スタイルでした。鹿島さんは基本は高橋さんとともに行動していましたが、折々に1人で地域との打ち合わせに臨むことになり、当時会長だった福井さんにお叱りを受けたこともありました。
「『若造が何言ってるんだ』ってね。こちらの見た目や喋り方が圧倒的に追いついていなかったんだと思います。だから人生の大先輩を前に一生懸命説明しても、なかなか納得いただけなかったんじゃないでしょうか」。
地域の思いを醸成する
異動当時、鹿島さんはバスの知識をあまり持ち合わせていませんでした。そしてそれは、片吹団地の人々も同様でした。そこが逆に良かったのかもしれないと、鹿島さんは回想します。
「レベルが同じくらいだから、『相手のわからないところがわかる』といいましょうか。難しい道路関係の法律の言葉を、まずは自分自身で噛み砕いて、理解したその内容を、住民の皆さんに説明していくわけです」。
加えて行政サイドとしては、地域はもちろんのこと、交通事業者とも向き合ってコミュニケーションを重ねなければなりません。
「だから『道路運送法をちゃんと覚えろ』って言われましたね。法律を覚えないとバス会社と話ができないから。そしてバス会社と対等に喋れないと、地域にも話せない。地域の方に質問されても答えられない…ということになってしまいます」。
理屈としてはその通りなのですが、バス会社と同等の知識を身に付けるのは並大抵のことではありませんでした。
「これ、横浜市道路局企画課の仕事っていうよりは交通局とか、それこそ市営バスとか、そういう人たちの仕事だよなあ、と思いながらやっていました。ただ、そういったやり取りを通じて初めて、本当の意味で、地域の住民の方々の思いを知ることができたんですよね」。
鹿島さんが高橋さんから繰り返し言われた言葉の1つに「地域の思いを醸成していく」というものがあります。通い詰めて、ひざを突き合わせ、対話し、信頼関係を築く。その結果、地域の思いが醸成されていく。それは一朝一夕にはいかず、時間も労力もかかる営みです。
「『地域の方々と一緒に汗水たらす』みたいなその感覚は、土木事務所で仕事していたときにはわからなかったことでした」。
山崎会長との信頼関係
鹿島さんの真摯で実直な姿勢は、福井さんの後を継いで会長となった山崎さんに、どのような印象を残したのでしょうか?
「本当に一生懸命やってくれましたね。入庁して間もないとか、経験が浅いだとか、そういったことはおくびにも出さない。もちろん我々からしたら、鹿島さんが立派な役所の担当です。高橋さんが異動されたあと、頼りになるのは、鹿島さんその人であるわけですから。いろいろとお願いごともさせていただきましたが、足繁くこの地域に通っていただいて、実証運行にまで、およそ1年で引っ張っていってくれました」。
では、鹿島さんが懸念していた「行政と地域の対立」は実際に起こったのでしょうか。
「記憶にないですね。まったくない」と、山崎さん。
「イライラしたとか、フラストレーションが溜まったっていうのもないし。もともと私、あんまり気にしない性格なんですよね。もう、ダメなものはダメだと。そういう割り切りが早いものだから」。
鹿島さんは、山崎さんのそういう姿勢にずいぶん助けられたといいます。
「何かを決めるにあたっても、山崎会長に『ここ直せ』『あれ直せ』とか『これじゃダメだ』という風に言われたことがないんですね。逆に、地元のことはこちらでやるからと、役割分担をしっかりしてくださって。安心して仕事ができました」。
親子以上に歳の離れた二人にはいつしか、「片吹団地にバスを通す」というミッションを通じての、信頼関係が育まれていったのでした。
IV. 地形というハードル
事業の成立は困難?
こうして地域と行政が関係を深める一方で、バスを通す事業者である京急バスは、事態をどのように捉えていたのでしょうか。先に触れたように、京急バス社員で最初に現地に入り、視察したのは玉井さんでした。
「私も『確かにここにバスが通ったら便利だろうな』とは思いました。しかしバスの認可申請をするとなると、道路管理者、交通管理者はじめ、いろんな方との協議が生じてきます。ですから交通事業者としては、なるべく安全な側に立ちたくなるわけなんです」。
片吹地区は道が非常に狭いし、電柱等の支障物があるということで、実現は難しそうだなというのが玉井さんの見立てでした。
玉井さんは、プロジェクト初期の段階で別の部署に異動となりました。のちに京急バスの担当となった、長塚課長の本プロジェクトに関する最初の記憶は、とにかく社内の意見が割れたこと、議論になったということでした。
「人口が圧倒的に少ない。こんなところにバスの輸送力が必要なのか?」
「バスを走らせるほどの需要があるとは思えない」
「健康な人は歩いてしまう距離。『お年寄りのためだけのバス』ということにならないか?」
「アップダウンもあるし、道も狭い。バスが物理的に通れないのでは?」
「すでに京急バスが走っているエリアと重複も多い。現状で十分なのでは?」
議論というよりも、圧倒的な「否」の意見が多い印象でしたが、市が横浜市地域交通サポート事業を始めたタイミングでもあり、かろうじて「ではやってみようか」ということになったのでした。
ルートの見通しはいかに
実際にバスを走らせる前に、まずは「実証運行」というプロセスを経る必要があります。これは「想定した程度の人数が実際に乗るかどうか」「運行してみてサービスに支障がないかどうか」その他、問題をあぶり出すために、営業運行の前に試験的な運行をしばらくの期間行うもの。ここで問題があれば解決する必要がありますし、あまりに問題が大きければ運行取りやめになってしまいます。
実証運行にあたり、まずはルートを決める必要があります。この段階でも、さまざまな要望や提案が出され、決定までに試行錯誤が続きました。
始めにお話しした通り、片吹団地は京急線の能見台駅と金沢文庫駅の間に位置しています(能見台駅には急行が、金沢文庫駅には加えて特急・快特も停まります)。自治会からの最初の要望は、金沢文庫駅を出発して団地内をきめ細かく通り、能見台駅に到着するというルート。ただしこのルートは、すでに京急バスが走っている路線と重複部分が多いことが問題でした。もう一つのルートは、能見台駅を出発して団地内を通り、能見台駅に戻るという循環ルートです。いずれにしても、片吹団地内は坂と狭い道の連続ですから、そこをどのように安全に走るのか、警察との折衝も難航することが予想されました。
それらの問題を踏まえ、小型バスでの試走が行われることになりました。自治会の希望したルート、京急バス提案のルートなど、全部で3つのルートを実際に検証しながら走るのです。自治会、京急バス、警察、行政、横浜市の各関係者が大所帯で乗り込み、3ルートをそれぞれ3回くらいずつ実験的に走って、実現可能性を模索しました。
その結果、京急バスがすでに走っている路線と重複しない、「能見台駅を出発、イトーヨーカドーを経由して片吹団地に達し、片吹団地内をぐるりと円形に通り抜け、再び能見台駅に戻る」という、能見台循環が良いだろうという結論になりました。
警察協議で一悶着
こうして大枠は決まったものの、片吹団地の内部は狭くカーブした道や点在する電柱のため、バスで運行可能なルートが限られてしまうという問題がありました。しかし住民や自治会にとって、どうしても譲りたくないポイントがありました。それは、金沢文庫駅からも能見台駅からも離れた不便な地区である、片吹団地南東方面を通るルートとすること。
ただしこれは同時に、警察にとっても(逆の意味で)譲れないポイントでした。団地南東地区の道路は、上に述べた幅員の狭いカーブや電柱などバス走行上の問題が多く、危険であると考えたのです。
横浜市の鹿島さんは振り返ります。
「警察には、『ここを通るのは無理です』とかなり厳しく言われました。京急バスさんも、そこまで警察がダメというなら難しいという判断で。でも地域としては、ここは絶対に必要だと。私としても、地域の要望には頷けるものがあったんですが…」。
かくして実証運行は、その直前の試走の段階で、急ブレーキがかかってしまったのでした。

ベストよりも、まずスタートを
状況を打破したのは、山崎さんの苦渋の決断でした。
バスは電柱や坂道等を避けて走るという、団地住民としてはベストとは言い難いルートを採用することに同意したのです。これはすなわち、団地南東地区の住民の利便性を犠牲にすることを意味していました。
「もう、産みの苦しみですよね。最初からベストなんかありえないんだから。コースを変えるとか、バス停を追加する、見直すなどについては、次のステップを待ってできないことはない。とにかくは、まず走らせることが大前提だと考えました」。
「満足度70%でも80%でも、とにかく作って。それで後から手を加えて、改善していけばいい。最初から『これでなきゃいけない』なんて考えていたら、通るものも絶対に通らないですよ。『まずバスを通す』というその部分に、私はかなりこだわったんです」。
こうして再び、実証運転に向けてのギアが入ったのです。
「奇跡」と言われたバス停設置
ルートが決まったら、次はバス停留所をどこに何ヶ所設けるかを決めることになります。これに関して、警察は危険を避け各種法規を守ってくれさえすればOK。また京急バスも、バス停の数や頻度は自治会に一任するとのことでした。
しかし横浜市の担当だった高橋さんは、山崎さんに次のような懸念を伝えていました。
「ルートが決まって一番難航するのはバス停なんです。バス自体は賛成だが、うちの前がバス停なのは困るという方が多くて、バス運行自体がダメになってしまったケースが過去にもあります」。
「例えば、10カ所のうち9カ所のバス停はOKをもらったけれども、1カ所だけダメだったために、代わりを見つけるのに1年かかってしまったケースもあるんです」。
当時、高橋さんの部下だった鹿島さんは振り返ります。
「自宅前がバス停だと、ゴミやたばこの吸い殻で散らかったりとか、家を覗かれたりといったことを嫌がる方が多い。それで揉めることが非常に多いんです。陽太さんはその懸念を山崎会長に伝えていたんですけど、山崎会長のそこからの動きは早かったですね」。
さて、その山崎さんは…。
「話を聞いて、内心、それは骨が折れるなと思ったの。住民に嫌がられたら元も子もないからね。ところが、バス停候補の場所のお宅に伺ったら、みんな、なんと一発OK。歩道がない道なんかだと、本当に家の真ん前がバス停になるのに『俺んちの前がバス停になるの?これは便利だね』と言ってくれる人もいたくらいで」。

高橋さんにしろ京急バスの長塚さんにしろ、このようなケースは奇跡に近いと、皆、驚きました。そこに込められた「この地域になんとしてもバスを通すんだ」という団地の人々の熱意を、関係する皆が感じていました。
ダイヤの決定と実証運行の開始
バスのダイヤ(時刻表)については専門的な事柄が多いため、住民が関わることは難しく、京急バス側からの提案となりました。運行時間帯は9時台〜16時台。利用する住民からは、もっと朝早い時間帯がほしい、もっと遅くまで運行してほしいという意見も根強かったのですが、さまざまな事情で、実現は難しいということになりました。
具体的には、当時からすでに存在していた運転手不足の問題。また、ピーク時に車両が足りなくなるという問題。さらには能見台駅のバスターミナルが狭いことから、朝のラッシュ時に大型バスと運行時間帯が重なると通り抜けできなくなる…といった課題がありました。
京急バスの玉井さんは語ります。
「病院へ通うために、8時台や9時台が欲しい。買い物のためには、10時台。欲を言えば、夜の時間帯も欲しいというお話でした。ですが、全部は難しいですよとお伝えして。本当に欲しい時間帯を伺って、その結果、昼間中心の運行になったんです」。
長塚さんが後を続けます。
「それから車両的な問題がありまして。この地域では、近辺の高舟台などに小型バスをたくさん走らせていて、そこがやはり朝夕に車両を使うんですよね。ですが、昼の時間帯になると余剰が出てきますので、それを活用する。つまり別地域と車両を共用できるという意味で、コストも下げられるし、それならスタートできるという判断だったんです」。
「バス停設置時の反対意見が一切なかった件もそうですし、私たちとしては、地域のたいへん大きな熱意と期待を感じていました。ですから可能な方法を模索して、なんとか地域に応えたいと思っていたんですね」。
かくして、準備は万端なものに。いよいよ、片吹地区における実証運行が開始されました。
利用者、予測を大幅に下回る
実証運行の期間は、2015年の10月から、2016年の3月までの、半年間と定められました。しかし万全を期したはずの実証運行で、想定外の事態が起こります。利用者は伸び悩み、運行当初の数字は、京急バス側から提示された目標「1日あたり220人」を大きく下回る、140人前後にとどまりました。
横浜市の鹿島さんは、いささかの焦りを感じていました。
「自分はもちろん、周囲にも『これはヤバい』という空気がありました。このままの利用者数だと本格運行の実現は難しいので」。
一方の山崎さんは140人という結果を受けて…。
「団地全体で世帯数が500くらいなんですよね。この状態に対して『もう、これ以上は増えない』『増えようがない』と感じたんです。なぜかというと、団地にも周辺地域にも、人口が増えるなんて要素はまったくない。これから開発が進むという計画もありませんし、完全に完成された、成熟し切った土地柄なんですから」。
もちろん、こうしている間にも、山崎さんや自治会、有志による、バス導入に向けた普及啓発活動は続けられていました。
「要するに、利用客を増やすのにどうしたらいいかというのはいろいろと考えたし、実行もしていた。それでもバスを運行するには利用者数が足りない。なぜ利用してもらえないのか?根本から考える必要に迫られていたんです」。
山崎さんは対策を考えあぐねていましたが、その間にも時間は過ぎ、乗客数は上向くことなく、実証期間は終わりに近づいてきました。ただし、実証期間が秋〜春にかけての冬季中心だったため、暖かくなる春〜秋の夏季を中心とした運行で、乗客数が変わってくる可能性は残っていました。一縷の望みをかけて、実証期間は半年間から一年間へ、すなわち2016年の9月にまで、延長されることになりました。
V. 100万円の奇策
起死回生
ここで山崎さんは、周囲の誰もが予測だにしなかったアイデアを実行に移します。
「バスには回数券があるでしょう?当時の京急バスのものは、200円の利用券が10枚入って、1綴り2000円。それを自治会として500セット、つまり100万円分を購入して、団地の各世帯に500セット、全部配って歩いたんです」。
「これを使えば、とにかくタダで乗れるんだと。往復なら5回分、片道なら10回分、自治会からということでお配りするから、とにかく乗ってもらいたいんだとお願いをしました。何はともあれ、乗車人数を増やさないと、バスは走りませんから」。
このいささか大胆な施策について、周囲から反対意見等はなかったのでしょうか?
「喧々諤々でしたね。交通対策委員会では『そこまでやるのか』という声もありました。けれども『そんなところに100万円も使うなんていうのは絶対反対だ』といった強硬な意見はなかったと記憶しています」。
「じゃあ100万円を使って、乗客数がどのぐらい伸びるのか、何割ぐらい伸びるのか、何人ぐらいになるのを見込んでいるのか?というのは聞かれましたが…」。
「あらかじめそんなことがわかれば苦労しないよ」というのが山崎さんの返答でした。
ところで、全国の事例を見渡してみれば、このように無料で回数券を配ると、バスを使わない人がよく使う人にその回数券をあげてしまう、ということが起こりがちです。そのような懸念はなかったのでしょうか?
「確かにそんな意見も出ました。しかし、それはそれで割り切ろうと。実際、いろいろ考えるともうキリがないんです。そこで最後は私が責任を取ると言ったんです」。
100万円の出所は
この100万円は、当然ながら自治会の予算から捻出されたものですが、特別な予算として組む必要がある破格の額といえます。これを用意できた背景には、実は、片吹団地創成期のエピソードが深く関わっていました。
片吹団地は、建設途中に東京住宅生協の倒産に見舞われ、住民の生活が危機に瀕したことはすでにお話しした通りです。しかしその代物弁済2として、団地の自治会には17筆3ほどの所有地が残されました。そのほとんどが崖地や法面4で役に立たないものの、ごくわずか、平坦なところが3カ所ぐらいあって、それが現在、自治会員に駐車場として貸し出されており、この収入が年間180万円ほどあります。
また、さまざまな目的で住民が利用する、片吹自治会館の貸出費。そしてもちろん、自治会費の収入。これらが今回の特別な支出を支えたのでした。
こうしてみると、創設時には住民の苦労の元となった土地をめぐる問題が、めぐりめぐって自治会の収入になり、この窮余の一策の元手となったことに、少なからぬ因縁を感じずにはいられません。
一軒一軒、手渡しでの配布に賭けて
2,000円とはいえ金券ですから、単に各戸のポストに投函して済ますという選択肢は、委員会には最初からありませんでした。
山崎さん以下、20人の役員は、2〜3人一組となり、団地をエリアに区分けして、ひたすら個別訪問を行いました。玄関のピンポンを押して「この地区でバスの実証運行をしているんですが、まだ6割くらいの達成度で、利用者が増えないと本格運行ができないんです」と事情を説明しては、住民に回数券を手渡していったのです。
さて、ではそれを受け取った住民の反応は、いったいどのようなものだったのでしょうか。
「『え、こんなことをしてくれるの!?』というのが圧倒的でしたね。逆をいえば、『そこまでしなきゃいけないのか』という、住民サイドの感覚もあったんじゃないかと。れっきとした金券ですし『ああ、そうか』『そこまでやっているのか』『じゃあ乗らなきゃ』っていう揺さぶりには、大いに役立ったんじゃないでしょうか。自分が2,000円もらうということは、団地全体では100万円もバスのために支出をしたのかという、そういったインパクトも、わかる人にはわかりますから」。
反響と効果
当時、京急バスの本社勤務だった長塚さんは語ります。
「管理している自分の立場からすると、信じられないことが起こって。突然、回数券の売り上げが増えてびっくりしたんです。思わず『何が起きてるのこれ?』って、能見台営業所に問い合わせたほどでした」。
一方、横浜市の鹿島さんの反応は次のようなものでした。
「ちょうど実証運行が半年経った頃ですかね。もう半年延長するっていうときに何かが起こって。僕を含めた横浜市側は何も知らなかったんです。行政の利用促進策としては、これは絶対に考えられない、ありえない。というのも、結果がどうなるかが、一切わからないわけじゃないですか。実行すれば絶対にお客さんが乗って、本格運行の確約になるというわけではない。そこに踏み込めたのは、やはり山崎会長の度胸でしょうね」。
山崎さんの試みは功を奏し、1日の乗客数が200人近くに跳ね上がるまでに至ったのです。
さらにポイントとなるのは、この施策が単なる一時的なカンフル剤には終わらなかったことです。一度増えた利用者数は、その状態をキープし続けました。団地の人々が、実証運行中のバスの存在を知り、その便利さ、ありがたさに気付いたのです。
山崎さんは、「結果として、高い100万円ではなかったかなと思います」と振り返ります。鹿島さんはこう語ります。

「『せっかくもらったんだから、実証運行中に会長に一度協力してやろう』ということなら、この結果にはなっていないですよね。『あ、バスって便利なんだ』と思ってリピートした人たちが大勢いた。そうじゃなかったら、ただのお祭り騒ぎで終わっちゃっていたんじゃないでしょうか」。
一朝一夕に獲得した乗客数ではなく、これは、地道で泥臭い、500軒分の手渡しと口伝えのメッセージの積み重ねがもたらしたものでした。
この背景には、片吹団地創成期以来の、不便なことは助け合って実現していこうとする「共助の文化」があったといえるかもしれません。
京急バス、本格運行を決断
回数券の全戸配布、それによって急増した利用実績。実証運行には確実に、ポジティブな変化の兆しが見えてきていました。そんな中、京急バスが本路線を正式に本格運行することを決定します。長塚さんがその背景を語ります。
「もともと京急バスのスタンスとしては、実証運行を行う、イコール、営業運行前提の本格的なトライアルのイメージではあったんです。そのため、1日の乗客数の目標も比較的シビアに設定してあって、いわば220人というのは採算ラインであると。その中で自治体や地域の皆さまにもさまざま積極的にご活動いただいたこともあり、今後の期待値という意味も含めて、本格運行に踏み切ろうということになりました」。
計画の初期に参画していた玉井さんは、その後のキャリアも含めて、片吹団地での経験を振り返ります。
「私が路線バスの案件に携わるのはこれが初めてだったんです。その後、他の地域でも関わっていくことになるんですが、それらと比較しても『一生懸命みんなでつくり上げていく』という姿勢が非常に強い案件だったんだなということを、改めて感じます」。
「片吹五叉路停留所」を追加設置へ
こうして、本格運行がついに実現しました。
そこで山崎さんら自治会側があらためて問題にしたのが、現状ではバスの恩恵にあずかれていない、団地南東地区の人々のことでした。たしかに団地南東地区の内部をバスが通るのは危険があり現実的でないにしろ、せめて「片吹五叉路」にバス停をつくることができれば、地区の人々がなんとかバスにアクセスできるようになります。
しかし、片吹五叉路も斜面かつ曲がり角の途中にあり、当初は、バスの停車は危険と見なされました。そこで京急バス、そして警察との、慎重で粘り強い折衝が行われました。横浜市の鹿島さんも企画書を書くなどを通じて協力しました。そうして導かれた結論が、注意喚起看板をいくつか設置して十分な安全対策を行えば、片吹五叉路にバス停の設置は可能である、というもの。
片吹団地側はその費用負担を買って出て、バス停予定地の手前数箇所に「この先バス停あり」「注意・徐行」といった看板が取り付けられることになりました。
こうして団地付近の住民を取りこぼすことなく運ぶことのできるバスルートが完成しました。自治会がリードしたこの議論と結論、そしてその成果は、かつて片吹団地の住民たちが、インフラもない状態から自分たちで団地のあり方を作り上げてきた歴史を思い起こさせます。


VI. 勝ち取った「足」、残された課題
本格運行を迎えて
路線バス導入の中心人物の一人として活躍した山崎さんは、本格運行を迎えてもあくまでひょうひょうとしていました。
「僕自身ね、導入の過程で困ったとか思い悩んだとか、本当にないんですよね。強いていえば、なんとか利用者を増やす算段をしなきゃいかんかったと。でもこれは、ある意味やりがいですよね。京急バスさんだって、道楽でやってるわけじゃないから。やっぱり営利がなければ、当然やるわけがないんだから。よし、じゃあ、やろうやと」。
「さらに言えば、交通対策委員会の19人のメンバーと一緒にやれたこと、これが非常に心強かったというかね、ありがたかったというか、それはもう感謝に堪えません」。
京急バスの長塚さんはこう振り返ります。
「正直に言って、当初は懐疑的だったんです。でも蓋を開けたら思ったより乗車人数が多くて。この人口、この世帯数でも、やり方次第でバスが成立するんだなということを教えられた地域でした」。
20代半ばにして本件に携わった横浜市の鹿島さんには、ひときわ大きな印象が残っているようです。
「僕も今日まで15年くらい仕事をしてきた勘定になるんですが、そのうちのこの3年間。少数精鋭で、地域やバス会社の方々とみんなで力を合わせてバスを開通させた。この後に、例えば高速道路を通すとか、規模的にはもっと大きな仕事をしているんですが、達成感といったときに真っ先に思い出されるのがこの仕事ですね」。
コストをかけずに増便するには?
本格運行後、住民の願いであった増便が、朝夕に一本ずつ実現しました。これには、実は住民の思いに応える、京急バスの思いが反映されていました。長塚さんが語ります。
「私は本プロジェクトへの参加が比較的遅かったので、地元の方や山崎会長などと実際に面と向かってお会いしたのは、実証運行が本格運行に移る時でした。そのときに、地元の皆さんの熱意や感謝の気持ちといったものをひしひしと感じて。我々もどうにかして応えたいということを、率直に感じたんです」。
どうにかサービスを改善したいと考えた長塚さんは、営業所と駅のみを行き来する朝晩の回送便を通常便として利用できれば、コストをかけずに便数が増え、路線のメリットになると思いつき、会社や関係者を調整して実現にこぎ着けたのです。
地元に熱意があれば、そこに成果が出る。成果が出ることがわかっていれば、サービスを拡大させられる。そんなポジティブなスパイラルが、関わる人々を動かしています。
「結局、人と人なんですよね。相手にしているのは人ですから、その相手に熱意があれば、こちらもそれに応えたい、熱意で返したいという風になるんです」。
玉井さんも同意します。
「おんぶに抱っこではなく、『それだとできない』『なら、こうしてみたんだけど』みたいなキャッチボールがあると、やりがいにつながりますね」。
「私、まだ赤ん坊だった子どもを連れてバスに乗りに行ったんですよ。担当を離れてしばらく経っていたんですけど、本格運行が始まったのが、やっぱりうれしかったんです」。
バスの走る、片吹団地に生きる
紆余曲折を経た路線バスの本格運行を受けて、片吹団地の人々が感じた安堵ははかりしれません。バスの誘致に当初から関わってきた白井さんは、運行が実現しなければ、団地内に数多くの買物難民が発生しただろうと語ります。
「バスに乗るとね、白井さんありがとう、助かるわって、皆さんに未だに感謝されるんです。それはもう反対。私の方こそ、乗ってくださってありがとうございますっていう気持ち。やっぱり乗ってくださる方がいなければ、バスもすぐ廃止になっちゃうでしょう?」。
「最初に目標が220人って言われたときは、ものすごくびっくりしたんです。たった500世帯ちょっとしかいないこの団地で、220人も乗るのかなって心配だったんですけど。今はそれを、260人くらいでクリアできているようです。イトーヨーカドーに向かうときなんかは、バスが満杯になるようなこともあるんです」。
そして白井さんは「私自身は、生活をバスに合わせています。今のバス行っちゃったけどまあいいや、30分遅らしていこうっていう。完全に、バスの時刻表に支配されています」と笑います。
主夫をしている貝田さんの日課は、朝一番のバスで食材を買い出しにいくこと。
「メモっていくんですが、いざ家に着こうというときに、買い忘れに気付く。それでまた午後のバスで出かけていくんです」。
現在は自動車派の平岡(70代)さんは、乗れる範囲でまだクルマに乗っていますが、自らをバスの乗客予備軍であると認識しています。
「クルマももう、遠くまでは乗れないんです。年齢的なこともありますし、いずれ免許を返納してバスにお願いすることになるのかなと」。
加藤(80代)さんの生活にも、バスは必須の乗り物です。
「主人が動けないから、午前に病院に一緒にいって、午後には料理の買い物をして。これが全部タクシーとなったら、とてもではないですけど行けなくなってしまうので、ぜひバスには存続してほしいです」。
そんな加藤さんには、ご近所さんの印象的なエピソードを覚えています。
「当初、バスが走り始めたときにね、ちょっと先輩の方が『これまではいつでも娘を呼んで、銀行だのなんだのに連れてもらっていたんだ』とおっしゃるんですね。『それが自分で行けるようになった、そのことがものすごく嬉しい』って。もう、その方もすいぶん前にお亡くなりになってしまいましたけれども」。
変わりゆく団地と人々
残念ながらバスの開通に間に合わなかった人々も、もちろんたくさんいます。
「私たちが越してきてほどなく、引っ越していかれた年配のご近所さんがいらっしゃいました」と、加藤さん。「クリーニングの取付店をやってらしたんですけどね。どうしてこんないいところを引っ越すんですかって聞いたら、やっぱり足が大変だから、駅前のマンションにって。いま思えば、バスがやってこなければ私たちもそういうことになっていたんだろうな、生活が成り立たなくなっていたんだろうなと思うんです」。
一方でバスの導入以降、団地に新しい風が吹くようになっています。加藤さんが続けます。
「片吹はバスがあるから、将来、親や自分が歳をとっても安心だということで、よそから引っ越してこられる方もいるんです」。

そうして若い家族が越してくるおかげで、片吹地区は、高齢化が進む周辺の地域と異なり、若年層の比率も多くなってきました。
「この団地の皆さんは入ってきた人に対してあたたかく声かけをするものですから、来たばっかりなのにもうすっかり馴染んでいらっしゃる。うれしいですね」。
こうして、片吹地区における路線バスの存在は、それが定着するとともにまちの個性となり、また、まちの新陳代謝を促す装置ともなっているのです。
団地の「足」は受け継がれるか
山崎さんをはじめとする自治会の皆さんに、懸念がないわけではありません。山崎さんは語ります。
「この10年の平均を見ますと、お亡くなりになるとか、施設に入る、あるいは子供さんのところに行かれるということで、自治会を退会ないしは退会扱いになる人が、年間で10数人。10年でおよそ130人の方が自治会を辞められて、代わりに新しい住民の方々が入ってこられている。つまり約2割の住民が入れ変わっています」。
「新しく入ってこられる方々はまだ若いので、自治会が主導したバス導入の経緯などはご存知ないですし、自家用車での移動が中心。それにまた、自治会の活動への参加率や関心が低いという傾向があって、どうしたものかと思っています」。
山崎さんの頭をさらに悩ませている事柄があります。
「このバスは、私たち片吹団地側からの要望に始まって、実証運行をやって、本格運行に漕ぎ着けて、路線として導入されました。私たちにとってはそういう思い入れのある、日々常々、住民が頼りにしている路線です。ところが本格運行が始まってしまえば、もう京急バスさんにとっては1営業路線に過ぎないわけですね。当然、採算であるとか、ドライバー不足への対策であるとか、いろんな観点で路線の存続を総合的に判断される。団地にはもはや必須の交通手段ですが、公共性という観点からは、あまり重要視されない路線かもしれない」。
「そんな風に考えると、一番先に減便や廃線の候補に上がっちゃう可能性があるんじゃないかと、存続には、非常に危機感を持っているんです」。
はたして、山崎さんの懸念は杞憂といえるでしょうか?この国の、特に地方における路線バスを取り巻く状況は厳しく、いまや、自分たちが使い続けて維持する努力なくして、存続は望めない時代になっているのです。過去、およそ10年以上にわたって、片吹団地の欠かせない交通手段として活躍してきた路線バス。団地の「足」が受け継がれるかどうかは、今日、そしてこれからの、片吹の人々一人ひとりの行動にかかっています。
「…いやー、すごいねおじいちゃん。そんないろんなことがあったの!?」
「お前に話したのは、初めてだったかい?」
「こんなに詳しく聞いたのは、私も初めてだなあ」と、ママもちょっと驚いた様子。
「団地に水道も通ってなかったってところ!あそこすごかった。それにバスって、当たり前に走ってるもんじゃないんだね」
「特に片吹地区にとっては、並大抵のことじゃなかったんだよ」
「人に歴史あり、団地に歴史ありですね」と、これはパパ。
「そう、だからバスのことも、自治会のことも、みんなで受け継いでくれないとなあ」
「本当ですね。ぼくもリタイア後を考える歳になってきましたし…」
「よーし、あたし今度からなるべくバス乗るわ!」
「おやおや、さっそくうれしいねえ。たまには昔の思い出も、こうやって話してみるもんだ」
こうして、とある休日のお昼どき、あたしたちはおじいちゃんから、思わぬプレゼントをもらったのだった。
それは、この団地の「物語」だ。この物語は終わらない。パパやママ、そしてあたしが主人公になって、今日から明日、そしてあさってと、先へ先へどんどん続いていくんだから。
謝辞 本稿の作成にあたり、インタビュー調査にご協力いただいた山崎会長をはじめ関係者の皆様に厚く御礼申し上げます。
- 地理院地図Vector(国土地理院)をもとに加筆 ↩︎
- 債務者が債権者の承諾を得て、本来負担していた給付に代えて他の給付で債務を消滅させること(民法482条参照)。 ↩︎
- 筆(ひつ)とは、登記上の土地を数える単位。面積に関わらず、1つの地番が付与された1かたまりの土地を「1筆」と呼ぶ。 ↩︎
- 法面(のりめん)とは、実際に宅地として使用できない斜面部分を指す。 ↩︎
- 横浜市役所のHPをもとに加筆
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/kotsu/chiikikokyo/huyasu/support/katabuki/katabuki-bus.html ↩︎ - 地理院地図Vector(国土地理院)をもとに加筆 ↩︎
