2025 年 1 月 作成
著者 片桐 暁
監修 / インタビュー 筑波大学教授 谷口 綾子
編集/インタビュー/文字起こし 筑波大学学士 4 年 大月 崇義
協力 吉田 泰基
序章 モータリゼーションの行方
モータリゼーションとは、クルマの大衆化や、クルマが日常的に利用される社会状態を指すことばであり、ここ日本においては、1960 年代以降に始まり、地方部で現在も続いている。この社会現象を、単にクルマが普及しクルマの台数が増えることと捉えてしまうと、ことの本質を見誤る。
道路の容量を超えたクルマが流入すると、渋滞が引き起こされる。渋滞に対応するために、さらなる道路整備が求められ、進められる。その結果としてクルマでの移動が便利になり、ますますクルマ利用が増える。人々はクルマで行きやすく駐車場がたくさんある郊外に住みたがるようになり、まちが郊外に拡散していく。郊外を走るそれらの道路に沿って、クルマによるアクセスが便利な、駐車場を備えた商業施設やサービス施設が立ち並び始め、旧市街や昔ながらの商店街は次第に空洞化していく。人々のライフスタイルはクルマありきとなり、クルマを使うことができない人にとっては極めて不便なまちが広がっていく…。今日のモータリゼーションの時代においては、いわば「クルマがまちをかたちづくる」のである。
クルマは閉じられた私的な空間である。クルマ移動が増えると「私的領域の肥大化」1につながるともいえるだろう。それに伴って起こる公共交通の減便や撤退は、「公的領域の衰退」2ということばによって表すことができるだろう。それは果たしてまちにとって、そこに暮らす人々にとって、幸せなことといえるのだろうか?
このようなクルマとまちと交通の捉え方は、2000 年代の日本においては、まだまだ広く理解されてはいなかった。そんな時代において、交通行動分析などの研究をはじめ、著作や講演、教育活動等を通して精力的にその普及啓発に取り組んだ研究者が、故・北村隆一3(1949-2009)京都大学名誉教授だ。この物語が取り上げる「再生塾(正式名称:NPO法人持続可能なまちと交通をめざす再生塾)」という組織が生まれるきっかけを作り出し、再生塾のその後の活動においても、精神的支柱となっている人物である。
第一章 再生塾の誕生と発展
北村隆一氏の投げかけたもの
再生塾の物語について語る前に、まずはこの組織の発足を主唱した北村隆一という人物について取り上げてみたい。
北村は、1972 年京都大学工学部土木工学科卒業、1974 年同修士課程修了後、アメリカに渡り、1978 年ミシガン大学にて PhD 取得。同年カリフォルニア大学デイヴィス校土木工学科助教授から、同準教授、教授を経て、1993 年にアメリカより帰国、京都大学工学部教授に着任した。とくに交通行動分析、需要予測の分野で先駆的研究を積み重ねたことで名高い研究者であるとともに、優れた教育者としても稀有の存在であったと評価されている。そして理論研究と現場の知恵との融合に、多大な関心を寄せていた。だから、総合交通政策4を推進する人材を育成していく器としての「再生塾的なるもの」は、実際の再生塾が実現する前にも、常に北村の大きな問題意識の 1 つだった。
北村の関心領域の広さ、問題意識の深さは、その著書や講演の断片からでも確かに窺い知ることができる。例えば、次のような一節はどうだろうか。これは『ポスト・モータリゼーション:21 世紀の都市と交通戦略』のまえがきからの抜粋である。北村は書籍の構成を簡単に要約した後、次のように書く。
「これらの議論を通じて浮かび上がるのが、戦後日本の都市交通政策は、都市と自動車という、二つの相容れない概念の間に妥協点を見出そうとする、成功することのなかった営みであったという結論である。この背後にあるのが、都市圏を空間的に差異化することなく、あまねく自動車によるアクセスを高めようとした、都市交通計画史における戦略的誤謬である。また、工学的、財政的に有効な諸施策が、これまでに実行されなかったという経緯の背後には、第 1 章で述べるように、都市における自動車利用が社会的ジレンマを形成するという事実が存在する。さらに、戦後の急なモータリゼーションによって、都市住民が共有してきた公共領域が変貌、消滅したため、物質的豊穣にもかかわらず、生活の質は逆に低下したとさえいえよう5」。
日本の都市交通政策に関する厳しい現状認識が、簡潔で無駄のない筆致によって書き綴られており、読者は北村の展開するロジックに思わず惹き込まれてしまう。続きが気になるところだが、それは以下のように結ばれる。
「20 世紀の都市交通と生活を規定してきたこれらの制約と誤謬から、未来の都市とその住民を解き放たなければならない6」。
このステイトメントこそ、再生塾誕生の契機となった、北村の問題意識であったといえるだろう。
あるいは、2007 年 8 月 11 日に開かれた第 1 回再生塾。そこで北村が行なった「話題提供」の項目を、一部抜粋してみよう。
■何故“まち”と“交通”の問題は解決しないのか?
・共有されない「自動車主体の交通体系は都市と相容れない」という認識
・抗し難い“クルマ社会に浸る幸せ”
■<公共領域の衰退+私的領域の拡大>が根底に
・「お金で買えないものはない」…のか?ホリエモンに見る創造力の限界
・何故日本の空は通信線に覆われることになったのか
・産・官・民による公共領域の侵害
・エコノミックアニマルになっているのは日本人ばかりか?
■私有されるクルマと、共有される公共交通
・消費は快感
・「遊び」も例外なく<商品化>されている
・Social capital の重要性の認識
・Social capital も「資本」であるからには「投資」なしに存在し得ない
etc.
講演という形態に合わせてだろうか、聴衆の興味を惹くようなトピックがバランスよく交えられていることに気づかされる。そしてここにもやはり、社会や時代に対する、透徹した思考とまなざしとを感じ取ることができるのである。
ところでこの話題提供を、北村は腕を三角巾で吊った状態で行っている。すでに病が進行していた北村は自宅 2 階から転落し骨折してしまったのであった。しかし「それだったらもう休んだ方がええんとちゃいますか」との周囲の声に対して、北村は「行くの楽しみやから」と意に介さなかったという。
周囲の語る、北村の人物像
社会学の新たなパラダイムを切り拓いたとされる、ジョン・アーリの名著『モビリティーズ ―移動の社会学』(2015 年)。その巻末の謝辞には多数の研究者が列挙されているが、そこには日本人で唯一、北村の名前が挙げられている。一般社団法人グローカル交流推進機構(GLeX)理事長にして二代目再生塾理事長、現再生塾理事である土井勉氏は語る。
「アーリの本で北村先生の名前を見つけたときは、ほんとにすごい人なんやなあって、もう誇らしい気持ちになりましたね。普段はしょうもないギャグを言ってね、僕は北村先生の人柄が大好きで、一緒にニコニコ笑ってたんだけど」。
株式会社 交通システム研究所代表、現再生塾理事の大藤武彦氏が語るのは、こんな人物像だ。
「帰国した北村先生はほとんどアメリカ人だった。日本語を忘れてしまっていて、『これ日本語で何ちゅうねん』とよく聞かれました。発言するときも、誰が相手でも関係ない。忖度しません。それで先輩教授に怒られてた。あるとき『あなたは 2 年間黙っときなさい。そしたら心配せんでも仕事は必ずくるから』って」。
神戸大学名誉教授で、三代目再生塾理事長を務め、現再生塾理事である正司健一氏の印象はこうだ。
「研究にはすごく厳しい。そこはオープンでストレートで、ものすごく鋭く指摘される。私は社会科学系の人間だから、なんで日本の社会、経済はこうなっているのかという質問をよくされ、私のしどろもどろの説明を、要するにそれはこういうことやな、と非常に分かりやすくまとめてくださる。思わずそういうロジックだったんだと、こちらが感心することばかりだったように思います」。
きっちりとスーツを着て、上質な革靴の靴紐を丁寧に結んで…といったイメージもあれば、その一方で―
「丸坊主で、ちょっと出かけるときにサングラスをかけて派手なシャツを着こなす。先生から聞いたエピソードなんやけど、休日にそんな格好でぱっと肩がすれあったときに、相手が直立不動で『すみませんでした!』って。その道の人と間違われてるわと思ったけど『兄ちゃん気ぃ付けやー』言うといた、と」。これは、一般社団法人 システム科学研究所 常務理事兼調査研究部長で、現再生塾理事の東徹氏のエピソードである。
元京都府交通基盤整備推進監で、現・四代目再生塾理事長である村尾俊道氏は語る。
「アメリカの悪役の映画スターっていうイメージ。それが懇意になってみたら、本当にある意味、理想型みたいな人でね。人生そのものが一つのロールモデル。ご自宅がまた、かっこいいんですよ。京都の町家で、リビング兼書斎の壁が一面の書棚になっていて、中央に白木のテーブルがバーンとある。僕はそこに赤ワインのシミを付けてしまって、先生に『奥さんに叱られる』と怒られました」
知の巨人のようだったとも評される北村には、このように、彼を慕い、取り囲む多様な人々がいた。それが、ここから始まる再生塾という物語を準備したのである。
再生塾・誕生前夜
2006 年 12 月、当時、土井が勤務していた神戸国際大学で『市民のための公共交通を考える』という国際シンポジウムを開催することになった。基調講演にはソウル市開発研究院(SDI)の金敬喆(キム・ジョンチョル)氏、パネリストとして北村、それに現在では和歌山電鐵のタマ電車(貴志川線)の生みの親として名高い両備グループの小島光信代表、さらにはちょうどその年に開業を迎えていた富山ライトレールの計画を牽引してきた森雅志富山市長(当時)。
基調講演では、ソウル市における劇的な路線バス網再編の進展の様子が紹介され、それに引き続くパネルディスカッションでは、総合交通政策を我が国でも本気で実現するためには、法制度を整備し予算を確保することの他、それを担うことのできる人材育成を行なうことの重要性が強調された。シンポジウム終了後の懇親会でもこの話題での意見交換が続いた。
実はこのシンポジウムには影の立役者がおり、それが先述の大藤であった。金の来日に話を付け、彼が来るからということで北村を口説き、小島や森に参加を依頼したのである。シンポジウムを企画した土井は、その後の懇親会についてこう語る。
「キム・ジョンチョルさん、大藤さん、北村先生と私で、夜遅くまで話し込んだんです。何の話をしたかというと、やはりわが国では、ソウルのように総合交通政策がなかなか進まない。それに対して僕ら焦りを感じてると。キムさんは北村研究室に留学していたこともあり親しいんですが、キムさんいわく『やっぱりあなたがたはビジョンばかりを語りすぎている。もっと夢を共有できる仲間..を作らないと、こういうことはなかなか実現しません』と言うんですね。この言葉が、北村先生がもともとお持ちだった思いと合致した。ということで、教育を行なう場を、塾を作りましょうというのがその場で決まって、年明けに改めて集まろうっていうことになったんです」。
「で、誰を呼んだらええかっていうのもめちゃめちゃ悩ましくて、人材育成プログラムにきちんと対応できる人たちがええやろうと言うので、京阪神の行政の方、それにコンサルタント、そして大学の先生。そこで、京都大学からは中川大7先生、京都府は村尾さん、兵庫県が本田豊8さん、そして東さんをお呼びすることになりました」。
こうして、シンポジウムの余韻が残る 2007 年のお正月、京都市上京区にある北村の自宅に、後に再生塾の理事・監事になるメンバーが招集された。その晩は食事とワインをいただきながら、人材育成を行うことについて、本気の意見交換が行なわれた。「まずは出来るところから取り組もう」ということになり、その夏から総合交通政策をテーマに連続セミナーを毎月開催する、学識経験者と実務者が毎回の話題提供を行ない、それについて参加者全員で意見交換をするという、進め方の骨格が決まったのであった。
「とにかくスタートしないとということで、大藤さんにかなり助けてもらい、大阪府立ドーンセンターという場所を押さえていただいた。そして第 1 回目の話題提供を北村先生にお願いした、という流れでした。そして三角巾で腕を吊った北村先生からお話をいただくことになったんです(土井)」。
2007 年、初年度の取り組み
草創期メンバーの 1 人でもあった村尾は、こう語る。
「参加への敷居を高くしすぎないよう配慮する一方、熱意や意識の高い参加者に限定するため、ワンデーセミナーの参加費を 3,000 円に設定しました。これは少し前に上げるまで長い間据え置いてきて、実はほとんど赤字という金額なんですが。そして開催は毎月1回、土曜日の午前中とし、参加者には事前課題として、問題意識の提出を求めました」。
そうすることで毎回参加者から、実務を通じて日々直面している課題が紹介されることになった。終了後には、塾を通じて学んだことを再整理する機会として事後レポートの提出を求め、それに対する講師陣からのフィードバックを行なうこととした。
初年度の参加者の募集には、関西交通政策実務者懇話会、日本都市計画学会、土木学会のメーリングリストを活用し、計 26 名が参加した。その内訳は行政 7 名、コンサルタント等11 名、交通事業者 5 名、そして大学等が 3 名。講師側については、大学 4 名、行政 2 名、コンサルタント 1 名の、計 7 名。再生塾の、最初の小さな 1 歩であった。
多種多様な人々の参画
こうして動き出した再生塾に、徐々に新しい力が参画してくることになる。三代目再生塾理事長を務めた正司の場合は、以下のような具合だ。
「12 月の国際シンポジウムには、私は完全に聴衆として参加していただけで、お正月に皆さんが北村さん宅に結集したことも全然知らなかったんです。私が参加し始めたのはその後のことです。その当時は、神戸大学大学院で経営学研究科長兼経営学部長をやっていたので、時間のコントロールが難しく、都合のつくところだけになってしまいました。そんな私も講師(11 月)として入れてもらっていたんです」。
「工学系の人と議論するのは、同じ交通という山を登る仲間ということもあって大好きだし、大学院生のころからいろいろ刺激を受けていました。経済・経営系としては当時珍しかったのかもしれませんが。社会科学系の視点からの話もあった方が良いということだったのか、ともかくも初めから仲間に入れていただきました。少なくとも私としては、自然と再生塾に入っていけましたし、今でもそれは非常にありがたかったと思ってます-」。
また、後の 2017 年には、神戸大学工学部教授で、現再生塾副理事長の小池が迎え入れられる。
「あるとき土井先生から、再生塾のお手伝いをしてくださいと言われまして。ところが私は土井先生の名前を存じ上げている程度で、再生塾のこともまったく知らなかった。ただそのときに、亡き北村先生がこんなことを考えて立ち上げた組織だからやらないかって言われまして、北村先生には色々お世話になっていたので断れなかった、という経緯でした」。
正司が種明かしをするには、「間違いないのは、再生塾としては世代交代をしてさらに発展しなければ、という意識がその前からあったんです。そのときに思い浮かんだ方は何人かいらっしゃいますが、塾生に刺激を与えていただける人、新たな視点を加えていただける人、という話があって、お声がけすることになったように思います」。
北村や発起人たちが塾の立ち上げ時に最初に考えたのは、「同じ立場の人間だけで議論するのは良くない」「いろいろな発想の人たちが一緒に議論した方が面白いだろう」ということだった。それが理事の人事にも、塾生の構成にも、後述するラーニング・ファシリテーターの配置にも、活きているのである。
2008 年、アドバンスドコースの開設
開講初年度(2007 年度)に参加した塾生からは、再生塾側がめざしていた「さまざまな立場のメンバーによる、本音の話ができる場所づくり」ということに対する評価を得ることができた。
一方で、例えば地方自治体職員など、公共交通の分野に携わってきた期間の短い参加者と、中堅コンサルタントの参加者とでは、知識や技術レベルに開きがあった。そのため、レベルに応じた塾の開催を求める意見もあった。そこで翌 2008 年度は、参加者からの声を踏まえ、交通分野の経験が比較的浅い実務者にも理解できる内容の「基礎編」と、基礎編修了者および交通分野に一定の実務経験を有するメンバーを対象とする「アドバンスドコース」の 2 つのコースを開催することとなった。
「基礎編」のプログラム
基礎編は、初めて交通政策を担当する人、あるいはあらためて基礎的な知識を学びたい人などを対象者として、総合的な交通政策を進めるために、実務に直結する幅広い知識をわかりやすく講義するワンデーセミナーである。
その内容は、公共交通環境改善の実践に重きを置き、講師からの一方的な講義にならないように、参加者全員から自分の問題意識の発表の機会を設け、さらにレクチャー後に全員で意見交換を行うこととするなど、参加者の発言機会を確保するよう配慮がなされている。
「アドバンスドコース」のプログラム
アドバンスドコースの対象者は、基礎編修了者、および数年程度の実務経験者である。月 1 回×5~6 回の連続研修会で、参加者は少人数のチームを組み、指定された実際のフィールド(地域や公共交通機関組織等)における、交通まちづくり課題に取り組む。チームは、再生塾会員から選抜された経験豊富なラーニング・ファシリテーターと意見交換を重ねながら、実践的な「提言」をまとめ上げ、最終的にそれを当該の自治体や組織にプレゼンテーションする。
それぞれのチームは、全員に役割(リーダー・進行・書記・発表)が当たるように 4~5名の編成とし、ラーニング・ファシリテーターが各チームを見守るかたちをとっている。
フィールドの候補選定は再生塾の理事会によって行われ、対象となる自治体や組織には、事前に再生塾役員が趣旨説明を行い、データ類の情報提供と、最終フィードバックへの同席の了解を得ることとしている。
月に 1 回の研修会では、その時点での各チームの成果を発表し、参加者相互に質問を課すことで、個々のプレゼンテーション力、コミュニケーション力を高めるよう工夫されている。
このアドバンスドコースに関して、東はこう語る。 「これは業務じゃないんですよね。最終的な成果物も、あくまで『提言』ですし。ただ、業務じゃないからこそ、普段の(本業における)自分の立場みたいなものから外れて、本質的にというか、本来的な総合交通政策はどうあるべきかみたいなことを考える機会になっている。そこに、実際のフィールドを対象にしている意味があると思います」。
土井はフィールドの重要性をこう指摘する。
「アドバンスドコースでは、現場に赴く日がまず 1 日設けられている。これは本当に大事なプログラム上のポイントです。現場に行って、皆が同じものを見ても、それぞれが違う意見を持つ。それを認識することがとても大事で、いわばこれによってチームがきちんと出来上がる。決して座学だけでは、こうはいかないと思うんですね。そして実際には、1 回におさまらず現地に赴く塾生も少なくない」。
ラーニング・ファシリテーター
アドバンスドコースにおいて、ラーニング・ファシリテーターは、正司によって命名されたもので、当初は再生塾会員から選抜され、のちにはアドバンスドコース修了生の中から登用されるようになった。
村尾はその重要性を強調する。
「再生塾のいいところは、このラーニング・ファシリテーターのシステムだと思います。ラーニング・ファシリテーターというのはどうあるべきか、次年度のコースはどうすべきか、そういったことを、毎年、全員が集合して検討するので、これが PDCA(Plan, Do, Check,Action)の仕組みになっているんです。あくまで我々は塾生の学びをファシリテートする役割に徹する。故に『講師』ではなく、LF(Learning Facilitator)なんです」。
混じり合う力が「互学互修」につながる
アドバンスドコースの参加者は、20 代~50 代の幅広い年齢層、行政・交通事業者・コンサルタント・大学関係者と多様な職種、そして京都・大阪・兵庫の都市部、地方部など多様な地域の実務者からなっている。
この多様性を活かすように、チーム編成においては、参加者もラーニング・ファシリテーターも、所属(行政、交通事業者、コンサルタント)が混じり合うように構成しており、異なる視点からの意見が「固定観念」を払拭し、課題の掘り下げが進むことを期待している。
いわゆる「仕事」とは異なり、これらの人々の間に利害関係が存在しないということも大きなポイントの 1 つである。自らのノウハウを他者と分け隔てなく交換することで、多様な知識の交流が発生し、新たな知の創出が促されるのである。
「再生塾が他と抜本的に違うところは何かといえば、参加者のメンバー構成です。いろいろな分野、バックグラウンドを持つ実務者同士が、お互いに教え合うということ。違う文化の人たちと一緒に混じり合うことで多くの気づきがあるということが一番大事だと思っています。例えば行政の中だけで議論していても、それは行政の文化に染まっているから、なかなか相互理解が進まない。やはりいまこそ、実社会に向き合っている人たちが本当に一緒になるべき時代だと思うんですよね(村尾)」。
懇親会での交流も重視
再生塾の研修会では、原則として終了後に懇親会を開催し、交流が自然と行なわれるよう促している。ここで懇親を深めることで、地域・職域を超えた人的なネットワークを培うことができる。実際、ここで参加者が相互にさらに親しくなり、その関係の拡がりが仕事にも好影響を与えたという例には事欠かない。
また、アドバンスドコースの報告会では、再生塾の会員、および賛助会員にも、オブザーバ参加と懇親会への参加を案内しており、実際に毎回数多くの参加をみている。
さらに、会員・賛助会員が自主的に行なう「クラブ活動」あり、各年度のアドバンスドコース修了生が開催する「同期会」ありといったかたちで、塾生および修了生が継続的に人脈を新たにし、学びの動機を活性化できる、柔らかなネットワークが築かれている。5 周年/10 周年/15 周年記念の交流会や研修旅行の盛況ぶりには、再生塾を通じた人々のつながりの強さを感じさせられる。
NPO 法人の認証取得と、北村先生の逝去
さて、こうしてアドバンスドコースが 2007 年度に開始された再生塾であるが、有料で塾の開催を行うためには、塾の社会的な信頼性を高める必要があった。そのため、持続可能な組織として位置づける必要があるということで、北村を理事長とする特定非営利法人(NPO)の認証を受けることが議論された。大藤はこの間の事情を語る。
「2007 年度にとりあえず始めたけれども、1 年だけじゃ話にならない。続けなければならないということで、ではどうしようということをだいぶ考えました。それで NPO 法人にしようと提案したんですが、立ち上げの手続きやら NPO 法人の事務局やらというのは大変なんですね。かなりの手間と時間を取られる。大学の先生なんかだと難しい。というわけで、自主的に僕がやって。そういう落ち穂拾いというかスイーパー的な役割を引き受けていました」。
「ただ、その議論のときも、スポンサーを募るという話は決してしなかったんですね。それは要するに、スポンサーが付くと、言うことを聞かなあかん。特に国なんかからお金をもらうとええようにつかわれる。これだけは避けよう、自立しましょうと」。
しかしこの間にも、北村の病は進行していた。
「2008 年秋から NPO 法人化の手続きを進めていたんやけど、認証がやっと下りたのが2009 年の 2 月。それでさっそく北村先生に連絡メールを入れたんやけど、返事がなかった。おかしいなと思って週明けてご自宅に電話を入れたら、奥さんが『いまから緊急入院です』と切迫した御様子で、それが最後だった。ですから、北村先生は NPO 法人が認証されたことをご存じなく亡くなられたんです。」。
再生塾発足の精神的支柱であった北村は、2009 年 2 月 19 日に亡くなった。
大藤はこう続ける。
「だから、北村先生の理事長期間は 1 か月もない。僕にとって再生塾は、北村先生が『やろう』といって、続く仕組みをつくって、すぐに亡くなられてしまったというのが一番大きいんです。北村先生との約束だから続けているという側面もある。それに僕としても『やっぱり最後は教育だろう』と思い始めたときだったので、これはやめられへんなと」。
土井が語るのは、次のようなエピソードだ。
「北村先生はすごい研究者でもあるけど同時に、根っからの教育者でした。亡くなる直前の 2 月はちょうど卒論、修論の締め切りの直前なので、そんなにしんどい時に、学生と ――あの時はオンラインですね、スカイプを使って、卒論や修論の進捗状況を聞いたりアドバイスしたりしていて、奥さんが見かねて『やめときなさい』って話をしはったけれども、『私はこれが仕事なんやからやらなあかん』とおっしゃっていたということでした」。
村尾は、北村が遺したメッセージについてこう語る。
「北村先生がおっしゃっていたのは、『お金で買えないものこそ、私たちの暮らしを豊かにする』ということ。これに尽きると思います。地域コミュニティとか、美しい街並みとか、平和な社会、平等な社会――こういったものというのは、値札がつかない。まさにそれはソーシャルキャピタルで、人と人とのネットワークであり、手をかけ投資をしないといけないということをおっしゃっていたわけですね」。
北村自身が構想した再生塾が軌道に乗るかどうかというタイミングの、それはあまりにも早い死であった。
2010 年、『地方議員のみなさまを対象とした地域公共交通政策セミナー』を開始
日本のどこであれ、再生塾が考える「総合交通政策」を実現するにはさまざまな困難が伴うであろう。しかしいずれにせよ、その実現のためには首長や議員といった政治に関わる人々の理解が必要であることは間違いない。また、当の首長や議員においても、一般市民の生活に直結するそれらの政策を勉強したいというニーズがあるかもしれない。
このような考えのもと、2010 年に開始されたのが『地域公共交通政策セミナー』である。本セミナーは地方議員をメインターゲットとした少人数制で、持続可能な都市政策・交通政策・観光政策・ユニバーサルデザイン等の基礎的な政策や理論の講義を行なう。それとともに、参加者各々が現場で直面する実際の課題を発言してもらい、多くの時間を質疑応答にあてることが特徴となっている。この取り組みは中川が提案して実現したものである。大学の教員でありながら公共交通サービスを自ら作り、実践している中川ならではの発想であった。
2014 年、『技術セミナー』を開始
アドバスンドコースの取り組みを重ねていうちに、参加者によって調査分析やプレゼン資料作成などのスキルに大きな差があることが判明した。そこでこの差を埋めるために、GIS9や様々な公的データの所在、取り扱い方、アンケート調査や統計分析などの入門編を講義する『技術編セミナー』が、2014 年から開設された。
講師は経験豊富で技術力のある現役コンサルタントが務めることとし、カリキュラムは交通政策で使用するデータの解説と分析技術を主な対象として、できるだけ演習を取り入れるなどの工夫を行っている。さらに、ベテランのコンサルタントや学識経験者による、実際のプロジェクトの現場や経験を踏まえた鼎談など、できるだけ受講者の興味を惹く内容で実施している。
このように再生塾では、塾生の要望や、時代の流れに呼応するかたちでプログラムを増やし、各プログラムの内容も進化させてきた。さらに近年では、海外の事例・常識を紹介するなど、ひろく学んでほしいテーマを設定した「イブニングセミナー」を開催するようになっている。
しかしやはり、プログラムのメインであり、再生塾ならではの体験を得られる場といえば、2007 年に開講されたアドバンスドコースということになるだろう。
さて、ここまで、再生塾の誕生と、そのプログラムの拡充について、運営側の視点から述べてきた。そこで次章からの 3 章は趣を変えて、再生塾を受講する塾生の側にフォーカスする。具体的には 3 人の塾生を取り上げ、彼・彼女らの体感した再生塾という物語について、それぞれの観点から描き出してみよう。
第二章 企業から、現場へ飛び出す ――近藤 創氏の場合
検索で偶然見つけた再生塾
JR 西日本に在籍し、現在は TRAIL BLAZER10へ出向中の近藤創氏が再生塾に出会ったのは、ほんの偶然からだった。
「自分は文系で、ずっと財務とか経理をやってきたんです。そういう意味では、地域交通の話を、どちらかといえば経理面から客観的に見ていた。ですから自分自身が主体となって、もっといろいろ考えてみたかったんです。あとは、本社ビルの中でずっと働いていると、やっぱり現場からどんどん遠ざかっていくのが気になっていたんですよね」。
会社の外で経験を積んでみたいという気持ちが芽生えた近藤は、神戸大学の MBA(経営学修士)講座の受講を検討する。だがそのアカデミックな雰囲気は、当時の近藤の求めているものからやや遠かった。しかし、そこで目にした正司健一という教授の名前は印象に残った。そこで「交通」「MBA」といったワードで検索をかけていく中で、ふたたび正司の名前と出会い、そしてそこから再生塾を知ったのだった。2014 年のことである。
基礎編を受講して手応えを感じた近藤は、いよいよアドバンスドコースを受講することにした。月に 1 回、半年を費やす長丁場のコースだ。近藤を動かしたのは、会社内の仕事や研修だけをこなしていても、地域交通を変えていくために必要な力がつかない、キャリアが積めないのではないのかという危機感だった。そして何より、実際に基礎編を受けて行動してみると、そこには魅力的な世界が拓けていた。
アドバンスドコースへの挑戦
近藤は都合 2 回、アドバンスドコースを受講しているのだが、初回の受講に関して、「チームの若手として、最大限に議論をかき回して走り切った」と回想する。
「ちょうど 29 になるか 30 になるかという歳で、若い方だったんです。土井先生や東さんがラーニング・ファシリテーターをしているチームで、塾生の側には土井先生と同年代の女性の方、それからあとは若手のコンサルと、自治体の職員と私。そんなメンバーだったんですけど、当時やりたいと思ったことを全部、自分でやり切ろうと思った」。
JR のような大手企業で財務をやっていると、個別のまちの交通機関や事業などの経営状況というものがどうしても見えづらくなる。しかし例えば JCOMM11などのイベントに参加してみると、参加者はそういった個別のプロセスに「トライし、その結果を見ては改善していく」というかたちで懸命に取り組んでいる。近藤は、本来 JR のような大手であっても、小規模単位での経営改善をさまざまなセクターで積み上げて可視化していけば、全社的にも良い効果が生まれるはずだと考えていた。
「その点、再生塾のアドバンスドコースでは、バス事業者等を相手に、路線単位が見えるような範囲でフィールド研究ができる。そこをしっかり捉えて改善提案できるとするならば、自分に対するフィードバックもあるかなと思っていました」。
「あとは、お客様に対してちゃんと話を聞いて改善をしていくこと。これもなかなか自分の職域では難しかったので、チャレンジしてみたかったんです」。
現場という醍醐味
そんな近藤にとって、まずは現場に出られるということ自体が、非常に新鮮で嬉しいことだった。そして、現場における本物の課題の解決に向かって多様な人々と真剣に議論ができること、チームメンバーやラーニング・ファシリテーターから折々にフィードバックが得られるということも、やりがいを感じるところであった。
しかしこのアドバンスドコースの結論ともいうべき部分で、近藤は苦い思いを噛み締めることになる。コースの最終仕上げは、フィールドとデータを提供してくれた自治体や事業者に、現状からの改善案を提案することだ。
「半年間の集大成の最後のプレゼンテーションで、その事業者の方が『それいいね、やろう』ってならないと、再生塾のアドバンスドコースは、ある意味それでスパッと終わりなんですね。それがすごく虚しくて。一生懸命やってきたけど、何も響いてない。これは何だったのかな?って」。
「それによって自分自身の力がつくとか、仲間ができるとか、プロセスの中で学んだことに価値があるとか、それはその通りで、自分でも理解しているんです。けれどもやっぱり最後、せっかくフィールドワークをして、本物のお客様との間でコミュニケーションをしている中で、何の改善にもつながらない活動として終わったっていうのは…」。
年長者として、再度のアドバンスドコースへ 「2021 年、2 回目にアドバンスドコースに参加した時は、今度は私が年長者になっていて。当時 37、8 歳だったんですけど、他の参加者はみんな 20 代とか 30 代の前半でした」。
1 回目の時のプレゼンでの「しんどい思い」をバネに、近藤は、今回はチームマネジメントとして成果を出し、最後のプレゼンでは相手に伝わるところまで持っていくという目標を自分に課した。フィールドは、京阪京都交通というバス会社の中の、亀岡の路線だ。
そこで近藤の感じた問題は、コロナ禍ということもあったが、メンバーの現地調査に対する積極性だった。近藤自身は 1 回目アドバンスドコースの際、バスに乗り込んで乗客にアンケートしたり、「突撃インタビュー」などを積極的に行なっていただけに、どこまでチームとして現場に踏み込むことをめざすか、という観点からのぞんだのだが…。
「『現場に行ってそこまでやるんですか?』っていう声もある中で、『いや、それはやらなくてもいいけど、やらなかったらやらないなりの、根拠のない提案までしかできないから、やっぱりやるしかないんじゃないか?』といった議論をしました。実際、それで現場の声が徐々に集まってきて。そうすれば、そこからどう進むべきかも分かってきますし、だんだんと話が具体化して、盛り上がってきた」。
チームのマネジメントを買って出ている近藤としては、そのような議論によってチームが変化していくことは楽しいことだった。しかし、最終プレゼンを控えた中で ――「メンバーの一人が、『昔プレゼンを批判されて、それで怖くなっちゃったんです』って言うんです。ですから、プレゼン頑張ろうやって言って」。
「何回も何回もチームみんなで練習して、その結果、最終発表で参加者の皆さんにちゃんと伝えることができた。そして再生塾から賞ももらえたっていうのが、2 回目のアドバンスドコースでは嬉しかったことですね」。
自ら役割を設定してやり切る
1 回目、2 回目とも、近藤が意識していたのは、自分の持っている知識とファシリテーションスキルを余さず出し切ることだった。
「毎回、自主的にアジェンダを作って配っていました。特に 1 回目の 2014 年くらいって、まだ全然ウェブ会議がなくて、LINE も微妙な時期、やりとりといえばメールだったんです。再生塾側がメーリングリストを作ってくれたので、そこでひたすらやり取りする。うちのチームは全部で 1100 通ぐらいのメールのやり取りがあったので、そんなチームはなかなかないと驚かれました」。
こういったチームワークにありがちなことではあるが、最初にお互いに様子を見るような時間が発生してしまう。近藤としては、率直に言ってその時間がもどかしかった。アドバンスドコースという限られた時間の中で、いかに早くチームビルディングをして機能させるか。限られた時間の中でアウトプットしてゴールに辿り着くか。そこに注力したかったのである。
一人の人間として課題に向き合う
近藤は再生塾の魅力として、自分が一人の人間としてプロジェクトに向き合える点を挙げる。
「これは組織の中ではなかなかできないところだと思うんです。ですから、組織を背負わなくてもいいそのメリットを十分に活かして、やりたいことを最大限にやってみる」。
「一方で、組織で働いた経験やそこで抱いてきた課題感があるからこそ、わかること、見えることも当然あるので、自分の社会的ポジションをすべてキャンセルしてしまうわけではなくって、そういう諸々も含めた一個人として、どう現場ないしはチームメンバーに向き合うかといったところが、アドバンスドコースの中では特に大事かなと思っています」。
「伝わらなかったプレゼン」の後日譚
ところで、1 回目のプレゼンテーションが相手に伝わらなかったという後悔には、後日譚がある。2022 年、再生塾 15 周年記念事業の一環で、過去の再生塾で行なった提案がその後どうなったのかをフォローアップするという活動が行なわれた。当時、近藤たちがプレゼンテーションを行なったのは、京都京阪バス。宇治で運行している京阪系のバス会社だったのだが、インタビューしてみると、近藤たちのつくった当時の資料を未だに持っているという。そしてその資料を参照などしながら、施策を少しずつ進めているというのだ。 「宇治といえば、宇治茶じゃないですか。ところが宇治を走るバスなんだけれども、茶畑を見る機会がない、観光客がいないということで、そういう需要を掘り起こしたらどうかといった提案をしたんですけれど、当時はそれで終わってしまった」。
「それがいまでは、観光向けのバスが走ったりしていているという話を聞いて、その時に響かなくても、担当者の方の心に後々まで残ったことがあったんだなということが、とても嬉しく思いました」。
印象に刻まれた人物たち
再生塾という会社組織の外に踏み出したことで、近藤は多くの印象深い人物に出会うことになった。
「2014 年からお付き合いさせてもらっている、土井先生。あの歳でフィールドに出続けて、しかも成果を出し続けてるっていうのがすごいことですよね。当時クロスセクター効果と先生がおっしゃっていて、それって経済学でいうと外部経済効果とかそういう話のことだな、工学系の人たちはそういう言葉でしゃべるんだな、なんて考えていた。するとそれが最終的にいまでは国交省の考え方の中にも入ってきて、ちゃんと計測の仕方がマニュアル化されて…みたいなところまで持っていくのが、やっぱり並の人じゃない。アカデミックな批評だけじゃなく、実行して成果にまで持っていくところが大変参考になる人だなと思っています」。
「東さんは飄々としているんですけど、事務局をしっかりこなして再生塾を回している。ああいう裏方をしっかり回せる人っていうのは、すごいと思う。あとは、1 回目の時の同期のコンサルの方。彼もかなり全力疾走系の人で、社外にもこういう人がいるんだな、仲間がいるんだなということを教えてくれた。外に出て勉強して、本当によかったなと思いました」。
再生塾とは「箱」である
再生塾を「教えてもらう場所」と思って来ると、後悔することになるのではないかというのが近藤の考えだ。「基礎編」や「技術セミナー」といったコースもあるが、いずれにしろ、自分から学びに行く、アクションを起こす結果として、何かが跳ね返って来る、そこに得るものがあるのだという。
「再生塾という箱はあるんですけど、多分、その箱自体がそんなに明確な形を持っているわけではないんじゃないかな。個々の人たちがそこにどれだけコミットするかによって、その箱がどんな意味を持つのかということ、どんなかたちになるのかということが変わるんだろうなと思います」。
その箱の中には、組織から離れた個人として入っていくことになる。となれば、「自分らしくいる」ことができれば、箱の中でうまく動き回ることができるのではないか。逆に、会社に言われたからという理由で来ている人は、会社を引きずってしまってうまく動けないのかもしれない。
「やっぱり一人の個人、自分自身としてあの場に立つことができるかどうかが勝負ですよね。大人になって自分に素直になるっていうのは、なかなか難しいと思うので。それができるかできないかっていうところが、再生塾を“楽しめる”かどうかなんじゃないかと思います」。
第三章 流されず、固執せず ――西窪 由香理氏の場合
わらにもすがる思いで
奈良市役所の交通政策課(当時)の西窪由香理氏が、再生塾、しかも初手からアドバンスドコースに参加したのは、やむにやまれずの事情があってのことだった。
「当時の私は、メインとしてはバリアフリー、公共交通を担当していて、中でもバリアフリー中心で仕事をしていました。奈良市は赤字路線への負担とかそういったものもあまりなくて、無償のコミュニティバスしか走らせておらず、平成 29 年度(2017 年)に初めて地域公共交通会議を設置したという、それぐらい交通についてはあまり危機感や関心のない自治体でした」。
そんな中、29 年度当時まで公共交通を担当していた奈良県の担当者、そして近畿運輸局奈良運輸支局の担当者の 2 人が同時に異動となり、さらに交通を担当していた上司も異動となったことで、西窪は課内で唯一の存在になってしまう。
「交通担当者が私一人になってしまった。それで近畿運輸局の中井睦12さんに、誰にも相談できなくなったっていう、愚痴というか相談をしていた時に『再生塾っていうのがあるねんけどな』と言われたのが、30 年(2018 年)の 7 月の話でした」。
アドバンスドコースの申し込み期限が、残りわずか 1 ~2 日後に迫っていた。悩んでいる余裕はない。内容を見ると、これは勉強になりそうだ。そこでとるものもとりあえず駆け込みで申し込んだというのが、最初のきっかけだった。わらにもすがる思いのスタートである。
「自治体目線」を意識して
西窪は結果として、都合 3 回のアドバンスドコースに参加している。西窪が入ったフィールドは、平成 30 年度(2018 年)に滋賀県の竜王町、令和元年度(2019 年)に西日本ジェイアールバスの園福線、そして 1 年空けて、令和 3 年度(2021 年)が奈良県の明日香村であった。
まずもって行なうのは、地域の情報収集。できるだけネットで調べることはもちろん、やはり一番大事だったのは現地調査だったと西窪は振り返る。フィールドを歩き回って地域の人にインタビューをし、可能であれば、自治体や交通事業者に対してのヒアリングも実施する。そしてそれを持ち帰ってチームのメンバーと打ち合わせをした後、ひたすら課題解決のための提案資料作成を行なうのである。
「チームはいろんな目線の方々の集まりなので、自分としては、自治体職員としての目線で意見を出していこうと考えました」。
例えば、「お金」と「費用対効果」をセットで考える。適切な補助金があるかどうかで、プランの適否を考える、といったことだ。
「それから、公共交通をやっていて思ったのは、なんだかんだ言っても、それはただの移動手段でしかない。じゃあ、その移動した先に何があるのかっていう、その先のイベントなり、お店とか経済効果、そういうものを考え合わせないといけないんですよね」。
バスを走らせるのには税金が使われる。「公共性の観点から利用者が少ないところにも走らせる」という理屈はわかるが、それでは「空気を運んでいる」「デマンドタクシーで十分」等と言われてしまう。そこでは路線のある地域と無い地域の公平性に関する議論も必要となってくるし、同時に、地域から聞こえてくる声にも耳をすまさなければいけないのだ。
「議員や地域住民の代表者からの要望だと、高齢者は病院に行きたいっていう声が多いんですよね。でも病院行くのって月に 1 回とかで、実際にバスを一番使っているケースは買い物が多い。訴えてくる声と、実際に使っている目的が乖離していることがあって、何が正解か分からないなかで提案をしていくんです」。
西窪はこうしたフィールドでの調査、あるいは普段の市役所の仕事で市民から聞いてきた声の数々、それらをもとに考えを組み立て、メンバーに提案しては、資料の中に織り込んでいった。
「質問力」と「突撃力」
アドバンスドコースでは、フィールドワークの回を除いて毎回何らかの発表があり、それに対して1人1回質問しなければいけないことになっている。質問するには人の考えを聞かなければいけないし、それに対して疑問を持たなければいけない。西窪はそれが非常に「しんどかった」という。
「毎回、絞り出す感じですよね。出てきた発表や報告に対して、しっかり話を聞いて根拠はちゃんとあるのかなとか、いまのわからへんかったな、って思うことを必死に考えないと質問できひんっていう感じなんです。でもお陰さまで質問力は、アドバンスドコースの中で身につけられたことの 1 つかなと思います」。
西窪がもう 1 つ、アドバンスドコースで見つけ、身に付けたのは、いわば「突撃力」ともいうべきものだった。現地調査で、バスの利用者や住民にヒアリングするのだが、最初はどうしても皆、気後れしてしまう。その時に先頭を切ってフットワーク軽く突撃するのである。
「私がガッと行ったら、みんなが『おー』『すごい』みたいな感じで。やっぱり女性やから、相手の方も少し話しやすいのか、色々と答えてくださるっていうところもありますし。これがもし仕事だと、市を背負うっていうところに気後れしそうなんですけど、再生塾で個人になった時に、普段できなかったことができるようになった感じがしましたし、自分の役割を果たせているなと嬉しかったですね」。
西窪にはこの点に関連して、もう 1 つ考えたことがある。
「女性目線の少なさっていうんですかね。男の人は近所のおばあちゃんの動きを知らんけど、女の人は知ってる、みたいなことってあると思うんです。でも再生塾も女性がすごく少ないし、ラーニング・ファシリテーターの中にもあまりいらっしゃらない。フィールドに出てみると、自治連合会なんかの代表にはみんな男性がなっている。やっぱり女性目線の必要性みたいなものは、すごく感じました」。
アドバイスが一致しない!?
再生塾は、塾生も先生もラーニング・ファシリテーターも多様な人々の集まりであることはすでに述べたが、西窪もその恩恵といおうか、むしろこの場合には“洗礼”を受けた。「同じチームの中で、ラーニング・ファシリテーターの方同士が言い合いを始めるとかってこともあったりするんですよ。どなたかが塾生にアドバイスされたら、それに対して別の方が『いや、そうじゃないと思う』ってなって、違うアドバイスが来るみたいな。それで塾生がみんな無言になっちゃって、終わった時に結局どうしたらいいんだろう…みたいな空気が流れるっていう。でも、そこが面白いところでもありますけれども」。
これは、フィールドに横たわっている問題への正解が、決して 1 つではないということの証左でもあるだろう。そしてまた、「これだけ考えの違う先生やラーニング・ファシリテーターの方がずっと一緒に続けてらっしゃるのは、本当に北村先生の理念を皆さんが持ち続けているからなんだろうなというのは感じますね」と、西窪は付け加える。
ズバッと言われて、グサっとくる
再生塾に身を置くと、人によって考え方がまったく違うということを改めて思い知らされる。誰かが意見を言うのを待ってから自分の意見を言おう、などと構えていては、後戻りできないまでに議論が明後日の方向に進んでしまうかもしれない。自分の意見をちゃんと持ち、然るべき反射神経でスパッと伝えてお互いに帳尻合わせしておかないと、最後に企画や資料をまとめていく段階で苦しくなってしまうのだ。
「そして毎回の作業の最後には、その日の報告会があるんです。そのときに、これは小池先生ですけれども、『自分が言ったことは正解だと思っているんですか』みたいな感じで、いつも本質的なことをズバッと言われるんですね。これが実にグサッとくる。それ以上考えずにいまの案で妥協しようとしていた自分に気づかされるんです。もっとちゃんと人の考えも聞いて、でもそれに流されない。かといって自分の考えにも固執しない…そういったことを考えさせられます」。
「調査、打ち合わせ、資料作成とか、正直、すごく大変なんです。発表が近づくにつれて、家に帰ってでも作業せなあかんかったり。でもプレゼンテーションが終わった後のすごい満足感と、それから一緒に苦難を乗り越えた仲間っていうのは、これはもう、ここでしか得られないものかなって。学生時代に味わっていたような達成感を、大人になっていまだに味わえるっていう感じですね」。
懇親会から広げるネットワーク
西窪にとって、再生塾に触発されたことの 1 つは、「カリキュラム後に懇親会を行なう」というやり方だった。西窪はこれを自身の活動にも積極的に取り入れ、奈良県内の交通担当者の飲み会を企画・開催したり、そのグループラインをつくったりしている。
「自治体の交通担当者って、たいてい一人とか二人でやってるんですよ。ですから行政として何か政策をしたい時とか、でもどういうルールにしようかとか悩む時って『この問題ならこの人』って、すぐに聞ける人がいたらありがたい。そういった仕組みづくりは、再生塾での体験が発端になっています」。
再生塾には他に、課外活動として「日本酒探訪会」というものがある(他にも「競馬部」や「甲子園部」がある)。西窪は、この会に企画側として参加している。
「日本酒探訪会を使って輪を広げていくというのはすごくやりやすいです。お酒はいいものですね。人の輪をつなげる潤滑油になっています」。
再生塾は、本職を持つ人にとっては、それ自体がある種の課外活動だ。そこに、さらに課外活動がある。その課外活動にもまた、懇親会がある。こうして人々が確かな、あるいはゆるやかなネットワークでつながり合っていくこともまた、再生塾がめざすところの 1 つである。
第四章 ファシリテーターの立場から ――山本 信弘氏の場合
再生塾って何ぞや?
この章の主人公は、現 JR 西日本コンサルタンツ取締役・計画本部長兼計画部長(元JR西日本建設工事部調査計画室長)で、再生塾の塾生に始まり、現在ではアドバンスドコースにてラーニング・ファシリテーターを務めている山本信弘氏である。そこで本章では、塾生としてはもとより、ラーニング・ファシリテーターとしての氏の声にも耳を傾けてみたい。
そもそも、山本と再生塾との出会いは、どのようなものだったのだろうか?
「私の所属は JR 西日本の建設工事部で、保線関連部署ではなく昔でいう工事局系の、新しく連続立体交差や新駅を作る方の部署です。それで、2008 年だったかな?JR 西日本から京都府に出向になりまして、そのタイミングで、知り合いだった村尾さんから、再生塾のことを聞いたのが始まりです。その時は『再生塾って何ぞや?』と、まったく何も知らない状態でした」。
山本はそのときたまたま、「アドバイザー会議」という、京都府が大学の先生方から交通関連政策に関するアドバイスをいただく趣旨の会議に業務として携わっていた。その先生方というのが、中川、土井、正司といった、再生塾の講師を務めている面々だった。そこで山本は、「再生塾とやらに参加すれば、そういった方々とも多少お近づきになれるのかな?」といった多少の下心もあって、参加してみることにしたのだという。折しも再生塾の第 1 回目のアドバンスドコースが開催されるところであり、フィールドは、嵐山電鉄。開催場所は京都、テーマは鉄道といったことで、山本にとってまさに渡りに船だった。
塾生時代の挑戦
この、塾生時代のアドバンスドコースで行なわれた議論を、山本はよく覚えている。
「印象的だったのは、jSTAT MAP13の前身みたいなソフトウェアに触れたことですとか、統計データやらいろいろなツールの話が出てきて、それらをどうつなげるべきか、鉄道本来の課題みたいな部分を抽出したところ。結果として、ここに新駅があったらいいよね、とか。「帷子の辻(かたびらのつじ)」っていう駅の中に、構内踏切を作ろうという話であったり。あるいは機械式駐輪場が作れるんじゃないかとか。そういう施策をいろいろとご提案したんですけど、幸いなことに、提案の幾つかは何年か後に実現しました」。
2 回目の参加は、山本の地元、兵庫県川西市がフィールドだったときのことである。山本
はたまたまプレゼンテーションの発表役を担ったのだが、「再生塾の中だけじゃなく、市役
所の中でも発表しよう」という話になり、50~60 人くらいの川西市役所職員を前に、再度
のプレゼンを行なった。このプレゼンの打ち上げで、山本は胃の痙攣が収まらずビールを口
にできなかった。しょせん提案ではあるとはいえ、業務として携わっている人々の前に土足
で踏み込んだように感じたからだ。
「ある意味、青臭いこととか理想論的なこともお話したかと思うんですが、その後、市
役所からいろいろお声掛けいただくようになり、市の活動に関わらせていただけるきっか
けになったので、それはすごく良かったなと思います」。
ファシリテーターとして考えること
こうして 2008 年(京福電鉄嵐山線)、2010 年(川西市)のアドバンストコース受講を経て、2015 年、神戸電鉄がテーマとなった年に、山本は初めてラーニング・ファシリテーターとしてコースに参加することになった。
「依頼は、村尾さんから突然でしたね。何ででしょうかね?私自身もよくわかってないですけど、コースに参加していない時でも、参加されている方々と継続的なつながりがあったので、『じゃあ、させてもらいますわ』みたいな感じで参加しました」。
さて、ラーニング・ファシリテーターとして山本が留意していることとは、どのようなものだろうか?
「やっぱり声が大きい人とか、リーダーシップを発揮する人がいるので、それだけに引っ張られないように。かといって、こちらの決めつけにならないように。しゃべる人、しゃべらない人、手が動く人、動かない人、口だけ動いて手が動かない人、いろんな方がいらっしゃる、意見も結構違うので、それを汲んで全体に反映させることですね」。
「それから、コースには学識の先生がいらっしゃることも結構あって、先生によってクセがあるんですね。とんでもない玉を投げる先生もいらっしゃるし、より現実に即した、その先生が課題だと思っているところに球を放る先生もいらっしゃるので、ときには塾生が凍りついちゃう、そこをどうほぐしていくか」。
「ラーニング・ファシリテーターもまた然りで、理念は一緒なんですけど、各論になってくると当然、皆考えが違って、そんなときには塾生が右往左往するんですが、そこは私は、むしろ右往左往をしていいんだと思っていて。ただし、せっかくわざわざ5回集まって時間をかけるわけですし、最後にはプレゼンまでたどり着いた方がいいかなと私は思っているので、そこにどう導いていくかみたいなところを考えています」。
違いが面白さを生む
まったくの他人が顔を突き合わせて共通のゴールに取り組むわけであるから、意見の対立は当然のことだ。ときには自分の考えに固執するあまり、周囲から浮いてしまったりする人もいるだろう。これは再生塾のアドバンスドコースが完全にフラットだから起きることである。会社業務等では、基本的に役職や上下関係があるのでこういうことは起きづらい。それに会社や組織の場合、ある程度積み重ねられ共有されたバックボーンがあるため、議論の前提が揃っているというところも大きいだろう。
「その点、再生塾では、参加してくるまでの立場というか、経緯やバックボーンがまったく違うわけですね。そこがむしろ、良い点、面白い点だと思います。そこをファシリテートするのが、私たちの役割」。
めざすべき社会に向けた異なる意見の対立が、議論にダイナミズムをもたらすのである。
まちをウロウロ 20 キロ
こうした再生塾との関わりの中で、山本自身にも大きな変化があった。1 つには、ものを見るときの幅が大きく広がったという。
「組織にいるとどうしても、ある一定の範疇で物事を見ていくんですけど、再生塾ではフィールドで自治体の話を聞いたり、学識の先生とか、コンサルの方、いろんな角度で物を見る方とご一緒できるので、ものの見方が変わるし、『まだまだ発見できていない見方があるんじゃないか』と、自分に問えるようになるんですね」。
もう 1 つには、「地域をちゃんと見る」ことが習慣として身に付いたという。 「どうしても会社柄、駅周りしか見ないというところがあったんですけど、その地域に行った時にとりあえずウロウロするっていうことを、自分の中のやり方にしました。走るのが趣味なので、走ったりバスに乗ったりしながら、ウロウロと 20 キロくらい。その時にはだいたい、迅速測図14 という古い地図をもとにします。すると昔の街道筋であったり、旧市街や昔の村役場があった場所であったりということが、目と脚で確かめられるんです」。
自身と組織のジレンマから解放される
塾生として、そしてラーニング・ファシリテーターとして、山本が考える再生塾という場のメリットとは、どのようなものだろうか?
「日常の仕事において、やったこと、こなさざるをえなかったことに、ジレンマのような、どこか納得できない思いを抱えることってたくさんあると思うんです。それを違う場(再生塾)で問うてみるとか、他の人の意見を聞いてみるとか、反応を知るであるとか。もっといえば、知らないことを知ったり、接点がない人と知り合えることが大きいですよね」。 「やっぱり自分で正しい見方だと思っているものは、組織に所属しているというバックボーンがある限り、実は偏っているということがよくある。それを知ったり、ほぐしたりしてくれたり、新たな知見を教えてくれる場として、再生塾は役に立ってくれると思います」。
第五章 再生塾の現在と未来
再生塾を駆動させるものは何か
以上、塾生が体感した再生塾の、三者三様の物語を見てきた。2024 年現在、再生塾はスタートより 17 年を数える。その間に受講した塾生は、延べ 1,500 人以上。アドバンスドコースは 5 回の受講で卒業というシステムのため、実際の塾生数はこれよりも少ないとはいえ、再生塾をめぐる物語の数は、実に 1,500 を超えて増え続けているということになる。
さて、本章では、今度は再生塾の現理事たちの声に耳を傾けながら、再生塾の現在と未来について考えていきたい。
再生塾 10 周年を記念して発行された記録誌『NPO 法人・再生塾の 10 年』に土井の寄せた、「再生塾をはじめよう」という文章がある。これはいわば再生塾小史ともいうべき内容のエッセイであるが、その末尾部分を下記に引用したい。土井はこう語っている。
「何故再生塾の活動が活発なのか?あるいは継続しているのか?を問われることが多い。こうした時に、一体何故なんだろうと自問することがある。そしてわかったことは、素晴らしい仲間と出会えることと、参加することの愉しさが活動推進のエンジンになっていることである。
これからも、素晴らしい仲間との出会いと愉しい時間の共有ができる再生塾であることを目指したいと考えるものである」。
再生塾は、ちょうどこの 10 周年のタイミングとなる 2017 年、日本モビリティ・マネジメント会議(JCOMM)から「JCOMM プロジェクト賞」を受賞した。そして、その次の節目となる 15 周年(2022 年)には、それを祝うかのように「近畿運輸局地域公共交通優良団体表彰」を、さらには「地域公共交通優良団体国土交通大臣表彰」を受賞することとなった。
この間、数多くの塾生の誕生と散開により、国土交通省や様々な府県市において、再生塾のプログラムの移転ともいうべき動きが起こってきた。「素晴らしい仲間との出会い」や「愉しい時間の共有」が、再生塾から発して、再生塾とは異なったところで、共有され始めたのである。
再生塾の課題意識と現在地
しかし再生塾創設から 17 年を経たいまも、塾の置かれた環境、そして日本の交通政策・交通まちづくりの現況は、まだまだ厳しい。再生塾的なる価値観が多少なりとも世間に広まり、受賞等によってその功績が認められてきたということはあるかもしれない。しかし、広く日本の自治体や、特に交通系コンサルタントの世界などを見渡してみれば、そこには、技術水準の底上げを阻む構造的な問題があるのではないかと、大藤は憂える。公務員であれば数年に一度の異動がそうであろうし、コンサルタントの世界の問題はより根深い。
「日本のコンサルタントは、ほとんどが事業化された仕事を入札を介して担う。基本的にクライアント(発注者)を満足させておけば、それでいいんです。しかも入札制度そのものが、安定していて経験があって安いところに発注される仕組みになっている。さらに発注者が受注者を評価する評価制度ができたから、イエスマンしか育たない。クライアントと対等でない場合が多く、地位も低い。こうした仕組みや法制度が変わらなかったら、そんなところで新しい芽が生まれるのは難しいでしょう」。
「ただ、こうした現状に違和感を抱いている若い人たちも多いはずで、だからこそ、こういう再生塾みたいなものが大事だし、チャレンジできる人をつくらなあかんねんけどね」。
小池は世相と再生塾との関係をこう捉える。
「経済が成長しているときには余裕もあるし、インフレの時期は技術者の価値が増していくから、取り合いになる。いい技術者を取りたい、アイディアに優れた人材を取りたいと」。
「でもデフレになると逆になって、お金の方が価値が高いのでコストカットした方がいい。技術者なんてどうでもいいということになる。だから同じ再生塾でも、別の時代に置かれてそのままだと温度差があるんですよ。成長期ではこういうことをやったけど、では今度はやり方を変えないのか、変えるのか。もう一度、見直す時期に来ているんだろうなと」。
課題 1. 今日この時代と、どう対峙すべきか?
小池はこう続ける。
「僕が再生塾に入ったときに、正直あんまり魅力を感じなかった。というのは、ノウハウとか技術とか、それを習うだけの塾であればそれはあんまり意味がない。市場にお金がなくなってくれば、そんなのは安いところを活用すればいいという話になってくるし、そのときに、何の価値も持たないことをみんなが一生懸命やる組織であってはいけない」。
「そうすると、僕は塾でも言っていますけど、知識よりも、ある種の見識の方を育てなきゃいけない。見識というのは、要は一人一人が考える、思考するということに他ならない」。
大藤は、学びの環境の変化を指摘して言う。
「最近、技術とか施策とか事例とかね、そんなんはいたるところに転がってるやん。一番いかんのはツール使ったら何か答えが出てしまう。このデータでこれ使って、この答えが出たらそれで終わり、という場合が多い。データだってね、単なるデータだと思ってるわけですよ。データの意味を考えるとか、そういう訓練をしていない。最近の教育課程の中で『なんで?』といった好奇心を育てる教育っていうのが多分ないんですね」。
正司(現在、神戸市の教育委員も務めている)は、「教えている側の多くの先生がそういったタイプの教育を受けずに育ってきた世代という側面もあるように思います。ただ、それではいけないということは文部科学省も気づき、変革を行なっているところなので、逆に難しい。しかし大切な時期に差し掛かっているといえるのではないか」と分析する。
小池は、知識ではなく見識 ――すなわち考えることについて、こう語る。
「考えるということを教育し続けないと、将来はないと思う。ここは大事なポイントで、ここ 20 年とか、ここからどんどんお金が少なくなっていくときだからこそ、知識以上のものを教えていかないといけなくなっていくんでしょうね」。
「経済が低迷してきたので、再生塾の提案が実現できない。それは確かにそうなんですよ。ちょっとしたアイデアくらいしか実現できないけれども、だけども、将来お金に余裕があったり、それからお金の余裕を作るような仕事をするために必要な、知識以上の見識を教えない限りは、多分もう成長はない」。
そして再生塾の存在理由について、このように述べる。
「再生塾以外のほとんどの塾と呼ばれるものは、結局、年寄りの成功体験と知識の伝承なんです。僕が見ててそんなのどうでもいいわけで、『状況が違う中で言われても』というところがある。そこをもっと深く、ちゃんと理解させるような枠組みで教えていかないと、多分、再生塾の存在理由がなくなるんですね」。
課題 2. 財務体質の脆弱さと、事務局の運営
再生塾の課題としてもう 1 点、創設以来のアキレス腱がある。それは財務体質の脆弱さだ。再生塾は現在 NPO 法人であるから、収益構造をつくる必要はないにしても、現在行なわれているような再生塾の活発な活動を維持し、廻し続けていくのは、実は並大抵のことではないのである。
再生塾の現在の主たる収入源は、セミナーへの参加費、会員および賛助会員の会費である。そして再生塾の活動を維持するためには、事務局の機能が不可欠であり、事務方の多大なマンパワー、それを支えることができる諸経費が必要となるのだが、その収支は設立以来、いまに至るまで綱渡り状態を続けている。再生塾の趣旨に賛同する会員たちが、北村の想いを実現するため、ボランティアで支えているのが実情だ。
事務局の労働に対する正当な対価を捻出し、多分に属人的な状態を抜け出すことの必要性については、理事間で見解が一致している。これは再生塾が次世代に踏み出すためには、必ずクリアしなければならない課題である。
コミュニティを育てつつ、世代交代を進める
再生塾がこれまで培ってきた最大のものといえば、やはり、延べ 1,500 名以上におよぶ塾生・卒業生ということになるだろう。
「その中でも私たちが一番大切にしている人たちが、会員と賛助会員のコミュニティですね。その人たちがこの先もいきいきと自分たちのフィールドで活躍できるということが基本だし、会員同士の交流の機会も、もっと増やしていかなければと思っています」と村尾は語る。
東はこう付け加える。
「再生塾のコミュニティというのは、アドバンスドコースを終了した人や、何度も受講した人とが仲間になって、コースが終わった後も、再生塾を通じて、あるいは自主的に、連絡を取り合ったりする。プログラムをただ修了しているだけじゃなくて、それによって仲間が増えていく。これを、再生塾の仕組みの 1 つの達成点といってもいいんじゃないでしょうか。そしてそれをもっと良くしよう、豊かにしようというのが、現在のフェーズだと思います」。
現在進行形の再生塾のテーマとしては、運営側の世代交代が挙げられる。再生塾の理事長は、初代に(ごく短期間ではあったが)北村、2 代目に土井、3 代目に正司、そして 4 代目の村尾にバトンタッチして現在に至る。村尾が理事長に就く時点で、年齢は 10 歳弱若返った。
また、業容を見据えながらラーニング・ファシリテーターを少しずつ増やしているのであるが、その世代交代も進みつつある。若い大学研究者や交通事業者の人たちをスカウトしていくことで、全体の若返りを図ろうとしているのだ。今後も、北村の教えをあくまで精神的支柱とはしつつ、それを具現化していく仕組みや陣容については、折々のアップデートが行なわれていくことだろう。
終章 そして、物語は続く
最後に、再生塾の今後の展望について、理事の幾人かのコメントを紹介したい。
きたる世代交代を見据えながら、大藤は、後続に望みを託してこのように語っている。
「当初、ビジョン的に再生塾の名前に付けた『持続可能なまちをめざす』という姿は、まだ全然達成できていない。人材育成という意味で言うと、目を見張るほど育ったか言われたらたいしたことないなと思うけど、まぁちょっとずつ増えてることは確かやと思うんですね。僕らももう、そろそろ引退してもええわけですよ」。
そして正司の次の言葉からは、巨大な「社会」という現実を目の前にした、覚悟のようなものが感じられる。
「なんで日本だけ実現できていないんだろう?というレベルで総合交通政策が実現できていないのが現実ですね。いまの再生塾の人的リソースで出来ることは限られているような気はするけど、諦めるつもりはないし、してはいけない。常に自問自答です。いつかはもちろん実現するんだと、いいと思ったことは、やり続けたいですね」。
土井の言葉から浮かび上がるのは、ポテンシャルとしての再生塾である。
「交通計画の、新しいステージを作っていきたい。奥歯をかみしめて頑張っていこうっていう、全体にそういう社会的風潮があると思うんですけども、そうではなくて、みんなが楽しみながらまちを作っていくっていう新しい価値観とか、あるいは目標像。それを誰がどういうふうに描き、実践して盛り上げていくかというのは、仕事ではなかなか難しいので、再生塾で議論をしていく。するといろんな人が、そこから可能性を広げていけると思うんです」。
彼らの言葉は三者三様であるが、そのベクトルを合わせた先に、これからの再生塾の向かう先が存在するのであろう。
かくして、北村隆一という人物を中心にして 2007 年に誕生した再生塾は、幾重もの人々を巻き込む運動体へと成長し、時代の変化に呼応しながら、10 年、15 年と挑戦を続けてきた。そしてその物語は、次の 20 年や、その先の未来へと、さらに続いていくことだろう。この日本に、持続可能なまちと交通を実現することをめざして。
- 「私的領域の肥大化」は、北村の言葉。詳しくは『再生塾十五周年記念誌』所収の「北村隆一先生の思想」p2 を参照。 ↩︎
- 「公的領域の衰退」も、同様に北村の言葉。詳しくは『再生塾十五周年記念誌』所収の「北村隆一先生の思想」p2 を参照。 ↩︎
- 北村隆一:
主な著書に「T.F.Golob, R.Kitamura, L.Long eds.(1997),『Panels for Transportation Planning: Methods
and Applications』, Kluwer Publishing」
北村隆一 編著(2001)『ポスト・モータリゼーション:21 世紀の都市と交通戦略』共著,学芸出版社
北村隆一・森川高行 編著(2002)『交通行動の分析とモデリング』,技報堂出版
北村隆一 編著(2004)、『鉄道でまちづくり:豊かな公共領域がつくる賑わい』共著,学芸出版社
等がある。
※隆一の「隆」の字は、「隆」の旧字体で閲覧環境によっては正しく表示されない場合があります。旧字体は『生』の上に『一』を加えた形になります。 ↩︎ - 総合交通政策:自動車や公共交通などの移動手段のみならず、まちの将来像を共有し、望ましい都市・地域像の実現をモビリティの観点から図ること。 ↩︎
- 北村隆一 編著(2001)『ポスト・モータリゼーション:21 世紀の都市と交通戦略』共著,学芸出版社, p5 ↩︎
- 前掲書, p5 ↩︎
- 中川大:京都大学名誉教授、富山大学名誉教授兼特別研究教授。元再生塾理事。 ↩︎
- 本田豊:建設コンサルタント、兵庫県庁を経て現在は富山大学教授。元再生塾理事。 ↩︎
- GIS:Geographic Information System.地理的位置を手がかりに,位置に関する情報を持ったデータ(空間データ)を総合的に管理・加工して視覚的に表示し,高度な分析や迅速な判断を可能にする技術.
国土地理院ホームページより:https://www.gsi.go.jp/GIS/whatisgis.html ↩︎ - TRAIL BLAZER:JR 西日本グループの企業。高度デジタル人材の雇用・育成を推し進め、グループの保有するデジタルアセットを活用し、デジタル施策実行支援を行う。 ↩︎
- JCOMM:日本モビリティ・マネジメント会議 ↩︎
- 中井睦:再生塾の LF(ラーニング・ファシリテーター)の一人。 ↩︎
- jSTAT:統計データを地図上に表示させる地理情報システム。 ↩︎
- 迅速測図:日本において、明治時代初期から中期にかけて大日本帝国陸軍参謀本部陸地
測量部によって作成された簡易地図。 ↩︎